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ある社会現象について

小金井市で二十歳そこそこの子が刺された。
冨田真由さん。

 大学3年生で、かつ、芸能活動をしていた子である。
「地下ドル」とか「ライブアイドル」とか言われた報道もあるが、
どうもそうじゃないらしい。

 「地下ドル」とは、メディアにはほとんど出ず、ライブや
イベントで活躍するアイドルのことを言う。

 被害者は、もともとは役者で、その傍ら、
さまざまな活動をしていたらしい(シークレットガールズにも所属)が、
メディアは、こういう、個別的な事情は煩雑だから、

「地下ドル、刺される」

 こういうふうに「概念化」して報道したほうが、
ニュースバリューもあるし、文字も少なくてすむ。


「概念化」するというのは、個別案件がすべてネグレクト
されるので、ひどく都合がよい。

「いじめ」と言ってしまえば、「あのいじめ」、「このいじめ」が
なくなる。

ほんとうは、さまざまな「いじめ」があるはずだ。
その「いじめ」には、それが発症した瞬間(この瞬間を「零度」という)や、
そのプロセス、結末、すべて、違う経路があるのに、
「いじめが起きました」といえば、それですむ。


だから、「概念化」というものは、「そういうものなのだ」という
ことをわれわれが理解していれば、それでいいのだ。


ところで、この加害者であるが、冨田真由さんのファンだったらしい。

さいきんの、アイドルは、壇上に立ち、近寄りがたい存在とは
すこし違って、ひどく卑近な距離にある。

AKBが現れてからの現象なのか、あるいは、それより前か、
サイン会や、もっと身近にアイドルと接することができるようになったのは、
たしかなことである。


ほんとうは、ファンというのは、顔があってはならない。
アイドルは顔が必要だが、ファンというものは、顔をもってはならない。


ようするに「ファンのひとり」という立ち位置が正しいのだとおもう。

それが、おそらくSNS、ネットの世界の隆盛で、
アイドルと接近する機会が増えたのも原因だろうが、
ひどく身近である。


だから、アイドルにプレゼントをすれば、個別的案件として、
その子の喜びは、じぶんに帰ってくるとおもいこむ。

顔をもたないファンはアイドルからの跳ね返りを期待してはならない。


ところが、まったくの無反応、あるいは拒否的な行為は、
加害者をストーカーにさせた。


ストーカーの、もっともだいじなことは「嫌われる」ことである。


ターゲットに「絶望的疲労感」を味わわせることにつきる。

そうすることによって、その子の心の深奥に、マイナスの感情で
棲みつくことができるのである。


それは、いっしょにいたい、という気持ちの
とても捩れた感情であるのだが、そうすることによってしか、
相手におもわれないのなら、それしかないのだ。


ほんらいのストーカーは、この段階でストーカーの任務は達成されるので、
この段階のまま、それを担保していた。

おそらく、こういう時代が続いたのであろう。

が、さいきんは、にんげんが劣化してきているので、
心が弱くなってきている。


心の弱さは、「抑圧」という精神状態におちいることに、
地続き的に容易である。


「抑圧」とは、みずからに都合の悪い情報を心の番人が、
みずかの無意識にその情報を送り込むことをいう。


詐欺師も、じぶんが悪いことをしていることを抑圧するから、
詐欺ができるのだ。


「抑圧」のはじまった、ファンで、かつ、ストーカーは、
どうして、ぼくがこれほどおもっているのに、
あの子は、ぼくに振り向いてくれないのだ、
という気持ちになる。


ストーカーという、卑劣な加害者が、
あわれな被害者となる瞬間がここにある。


心理学的には「認知的不協和」の逆作用である。


「認知的不協和」というのは、
じぶんがこれほどあの人のためにしているのは、
あの人にじぶんが好意をもっているから違いない、
と、錯誤することをいう。


じぶんが、これほど、好意をもって、
さまざな物的な負担もしているのに、
あの子が、無関心なのは、認知的不協和が作動していない、
と、そうおもう。


これが、殺意の発端である。


ま、こういう一連の心的好意を「馬鹿」といって片付けてしまっても
いいのだけれども、感情の劣化は、こういう
社会現象を、酸が侵食してゆくように
じわじわとうまれているというのが事実である。


まずは、ともかく、冨田さんの回復を祈るのみである。