古代と現代では、時間の感覚がまるっきり違う。
おんなじ十秒でも、いまやスペースシャトル打ち上げの
カウントダウンであったり、
百メートルを走りぬけるタイムであったり、
そのせわしなさと言ったら。
・春すぎて夏きたるらししろたへの衣ほしたり天の香具山
有名な持統天皇御製歌。
桜井満さんは、この歌は、巫女が香具山で
みずからの衣を乾しているところであると
論破された(『万葉集の風土』)が、
ちょっと文法的なはなし。「らし」という助動詞は、
推定を表すが、「らし」の上接部分では、事実判断を、
下接部分では、その根拠となる事象が語られる。
つまり、上の句と下の句と「おんなじこと」を別の観点で語ったのだ。
・降る雪はかつぞ消(け)ぬらしあしひきの山のたぎつ瀬音まさるなり
(『古今集』よみ人しらず)
・ぬき乱る人こそあるらし白玉のまなくも散るか袖のせばきに
(『伊勢物語』)
「らし」の歌をさがしはじめると、
「二句切れに枕詞」という構造の歌に出会うのも、
上の句と下の句の釣り合いをたもつのに
都合のよいものだったからなのだろうか。
ともかく、「らし」で語り出す歌というものには、
ゆったりと流れる時間、
茫茫たる時の感覚、というものが底流している。
冒頭で述べたが、古代と現代の時間の流れ方というものが、
七倍くらい違うという説もある。
古代人は、たなびく雲のように、
ながれる風のように自然に身をゆだね、
のんびりとした時間を過ごしたのだ。
それを象徴するように「らし」という一語は
機能しているようにおもえる。
そもそも、歌とは、
ひとつの対象をじっくりと見つめ(いわゆる「道具立て」)、
それをゆっくりとうたいあげるものではないか、
わたしはそうおもう。
「らし」は「らしい」に代わり、
すっかり歌の世界から姿を消した。
それにともない、さいきんの歌では、
こういう伝統的なスタイルまでが、
極端にすくなくなってきている。
ライトバース、デジタル短歌、さまざまな呼び名で呼ばれる、
ポストモダン以降の短歌の世界は、
時間に間に合わない焦燥感がいつもつきまとっているような
性急な歌がはびこっている気がする。
「詞楽」同人、小野葉子さんの歌。
・昨夜(よべ)の雨は雪でありしか丹沢の山襞ひだに雪白く見ゆ
すでに「らし」が消滅した現代短歌に、
「らし」とおんなじ構造の歌を詠んでいる。
「昨夜の雨は雪」であったろう、
その理由は「丹沢の山襞ひだに雪白く」見えているという
古代の歌に共通する色彩を具有した作品だ。
こういう歌を見ると、ああ、歌っていいなぁとおもうのだ。
たまには、じっくりと寺巡りでもして、
時間をわすれるのもいいかもしれない。
そうだ、京都に行こう。