わたしの高校時代は
浪人するのが当然のような時代だった。
で、浪人すれば早稲田大学くらいは
行けるのではないかと、
そんな甘い考えをうっすらと抱いていた。
なんと、浅はかなことだったろう。
で、ご多分に漏れずわたしは
ちゃんと浪人した。フクヤマ先輩の言葉を信じ、
代々木ゼミナールに通う。
あそこのよいところは、有名講師がいることも
さることながら、定期券に学割がきくことだった。
だから、途中下車はすべて無料である。
有名講師といえば、多久先生という漢文の
先生がいらっしゃって、その破天荒な授業が
いまのわたしの骨組を形成しているのかもしれない。
すぐ、ひとに影響されやすい
流されやすい性格だったのだろう。
それは、さておき、浪人生活を送ってみると
社会から、はずれた一年だった。
泉田あけみさんという中学の同級生と
JR目黒駅でばったり会って
「うち、いらっしゃいよ、うちに」と
笑顔で言われたときほど、屈辱を味わった
ことはなかった。
なにが、うち、だよ。ほかほかの大学一年生がさ。
「うち」嫌な言葉だね。
彼女の「うち」は上智大学である。
浪人生活は、ひとをひととも扱われないような
そんな気持ちで過ごし、また、お金もふんだんに
あるわけではない。予備校代を親から
平気で出してもらっていても、それに
感謝の気持ちすら、そんなに持てずにいた。
いまからすれば、たいへんありがたいことだった。
いちど、へらへらしながら
代々木の改札を入ろうとしたら、
まだ、改札に駅員が立っている時代だったので、
その駅員に腕をつかまれ、肘と逆方向に
ひっぱられて定期をまじまじと見られたときがあった。
いまなら、慰謝料をとれるくらい行為だったろうが、
浪人生はひとではないので、そのまま過ごしてしまった。
失意という語が一年間つづく。
と、当時、目蒲線という電車があったころ、
いまの目黒線であるが、武蔵小山の駅に着いたとき、
電車の窓からカレースタンドの店がふと目に留まった。
300円と看板にある。
なにをおもったのか、途中下車など
できたけれど、ほとんどそんなことしなかったじぶんに
電流が走ったような感覚がおこり、
ポケットにある小銭をさがしたら、
なんと、ちょうど100円玉が三つあるではないか、
わたしはおもわず武蔵小山で降りた。
300円を握りしめながら、カレースタンドに
むかっていったのだ。
カレーが食べたかったのか、
それとも、じぶんの力でご飯が食べられる
というささやかな自立感を味わいたかったのか、
いまとなっては50年も前の話だから
すっかり失念しているが。
で、店の前まで来て、もういちど、ちゃんと
300円があるかわたしは確かめた。
と、手のひらで100円を数えたところ、
その一枚がころころと手からすべって
アスファルトのうえをころがっていったのだ。
あれよ、あれよ、その一枚は、こともあろうに
U字溝のコンクリートの蓋のなかに落ちていった。
落ちたところを見ると、
どぶのなかに一枚の100円が光って見える。
つまり、いま、わたしは200円しか手許に
なくなっているのだ。カレーライススタンドの
その目の前のU字溝での出来事である。
あと、三歩歩けば店にはいれるというのに、
硬貨をたしかめなければはいれたのに。
しかたなく、わたしは踵(きびす)を返し
また、武蔵小山の駅にもどって自宅に帰った。
残高は200円になってしまった。
たいした話ではない。
が、なにかをしようと思いつき、
それを実行しようと、普段とちがう動きをし、
それが徒労におわり、しぶしぶとまた
いつもの道にもどってゆく、
これって、ひょっとすると、わたしの人生の
象徴だったのではないかと、晩年になって
おもうことがある。
けっきょく、おまえはなにをしたのか。
わたしは気づいたのだ。
どんなに、よい思いつきで、なにかをはじめても、
それって、あのカレーライススタンドの1シーンの
再演ではないのか、と。
あの時から、すでに道は敷かれていたのかもしれない。
カレー食べようとおもったけどさ、
そのとき金落としちゃって
食べられなくてさ、は、は、は、
お笑い草だよ、
なんてお気楽な性格もでもないしな。