今回は俳句の話。「俳句」は正岡子規だから、
芭蕉の時代には、俳句ではなく、句といった。
その芭蕉の弟子、去来の句。
・岩端(いわはな)やここにも月の客ひとり
このへんの事情は『去来抄』によっているが、
やはり弟子のひとりである洒堂が
「岩端やここにも月の猿ひとり」に改めるべきだと示唆する。
芭蕉が、このやり取りの報告を聞いて、
「汝、この句をいかに思ひて作せるや」と問う。
去来は「名月に山野を吟歩しはべるに、
岩頭またひとりの騒客を見つけたる」と答える。
洒堂の提案からもわかるとおり、
「またひとりの騒客」とは、「猿」だったのだ。
岩頭の猿がまるで月を愛でているかのように
去来には映った。それはかれの発見でもあった。
さらに、去来は「月の客」が、「月の猿」より
優れているのではないか、と老翁に問うのである。
じっさい、「猿」という実景があったほうが、
読者の想像は限定できる。
が、想像を限定するほうが有利か、
と問われれば、それは「否」であろう。
管見ではあるが、つまるところ、
歌 (句も含めて) は「いかに表現するかではなく、
いかに表現しないか」ではないか、
とおもっているのだが、
ここでは、それが妥当するのではないか。
つまり、「月の客」は、
猿でも鹿でも鶉でもよかったし、
もっといえば、
それは土芳でも其角でも許六でも
よかったのではないか。
かんじんなのは、月を愛でている
「ほかでもない私」の存在なのである。
蕉風の確立者は、その急所をつく。
・岩橋やここにもひとり月の客
つづけて、
「おのれと名のり出でたらむこそ、
いくばくの風流ならめ。
ただ、自称の句とすべし」と語る。
「自称の句」、つまり、
ここにも月の客の「私」がいますよ、という宣言である。
この事情は、われわれが歌をつくる上での
規範となるだろう。
もちろん、芭蕉のいう「自称」には「自我」や「自己意識」の概念はない。
だが、われわれの歌作りには、「自称」の視座を保ちながら、
アイデンティティや自意識とふかく
関わらせなくてはならないので、
ハードルは元禄時代より、すこぶる高くなっているのだ。
ところで、去来はそのとき、
芭蕉の推敲の文学的水準の高さにすっかり
舌を巻いて、
「まことに作者その心を知らざりけり」と
『去来抄』に付記する。
元禄七年、芭蕉、上洛のときであった。
なお、芭蕉はこの年に他界した。