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漢文教育の間違い

 漢文という教科がある。

いまの中国語とはずいぶんちがっていて

社会人にでもなれば

漢文というものがどれほど遠い存在になっていることか。

 

だから、古代の漢文の話など

おもろしくないだろうが、文部科学省では

漢文は日本の古典という位置づけをしているから、

すでに日本語の末端の一部、ということになろう。

 

国語の教員とかいって

口角泡をとばして講義されている方もいるだろうが、

こと、漢文となると門外漢という輩もおおい、はずだ。

 

で、だれが言ったか知らないが、

誰かがいったことを真に受けてそのまま

授業ではずかしげもなく講義しているひともいる。

 

なぜなら古代漢文の本質をとらえていないから

そこに大きな問題かある。

 

この稿は、そんなファッカーのために

おもしろくないことを申し上げることにした。

 

まず、漢文の本質は、起こった出来事順にしか

語れないという事情である。

 

朝、起きて、歯を磨いて、靴を履いて、家をでる。

 

こんな感じ。

 

朝、起きて、昨日の彼とのデートを語り、そして家を出る。

 

何ていう、昨日の彼とのデートの話を

途中にはさみこむことができないのだ。

 

時制通りにしか語れないからである。

 

だから、そのときに「嘗」という

時制をもどす副詞をつかう。

「嘗て」「昔」「初め」などの副詞をつかうことによって

過去にもどれる、ということは、

たとえば、文章中に「嘗て」「嘗て」が二度

登場するということは、三つのちがう時制の場面が

語られているということだ。

 

ひょっとすると、その文章は、時制が逆流しているかもしれない。

 

そういう「嘗て」が何度も出てくる物語の

設問には、このひとは、どのような出世街道を歩んだでしょう、

というようなことが出題される。

 

時代が逆になっているから。

 

また、同時進行が言えないのだ。

 

朝、起きて、歯を磨き、は

たしかに時制どおりだが、

歯を磨きながら新聞を読む、

という身体運用が言えないのだ。

 

ま、新聞読みながら歯を磨く必要はないけれども、

そのときは、「磨く」という動詞と「見る」という動詞の

間に「而」(「しこうして」と読む)を挟むのだ。

 

そうすると、磨きながら見る、という行為が

同時になる。

 

古代中国語は、こうやって「而して」をはさむことによって

同時進行をあらわしたのだ。

 

それを、なーんにも知らない教師は「而」、

はい置き字ね、って厚顔無恥なまま

平気でそう教えるのだ。

 

「而」を置き字だとおもいこんでいる

学生の多いこと、とんでもな弊害である。

 

また「於」もしかり、

それも置き字と言って処理される。

これも、大いなる間違いである。

「於」はむしろ前置詞として認識したほうが正しい。

 

「於」の下には「・・に」」「・・と」「・・・より」という語が

用意されるのだ。

 

・莫 近 於 詩

 

この四語を読む問題。答えは「詩より近き莫し」

「しよりちかきなし」と読む。

 

これは「於」の問題と言ってもよい。

 

「詩」の下に「より」を入れて比較をあらわしている。

この「於」をただ、置き字と教えてしまうのは、

まったくもって間違いと言わざるを得ない。

 

いまの学校教育を鑑みるに、

国語の教員ほど、いい加減なひとはいない、

と、わたしはおもっている。

 

漢文は、書き下し文を書いて、意味を書いて、

句形をおしえればよい、という

根底からまちがった教育法を見直して、

本質にみあった、教え方というものを再考するべきだろう。