ひとは岐路に立たされた時
たぶん二分する生き方があるのだろう。
オプティニズムとペシミズムと
言ってしまえば簡単であるが、
まま、おれより下はいないか、とおもうのが
ひとの常ではないだろうか。
だから、ひとの一生で
うんと下位のものを経験するというのは、
そのひとの人生の重みにもつながるというものだ。
わたしの教員生活の最後の場所は
その下層階級にちかいところだった。
いま、その学校もレベルを上げてきたらしいから
現在はどうかわからないが、
その当時は「おれたち、金払ってるんだから
黒板はあんたが消せよ」とかいう生徒がいたと聞く。
「金はらってんるんだから」という
学校内部では経済理念を持ち出さない
というのが最低限のお決まりだったのだが、
すでにその最低限が崩壊してしまっていた。
教室では休み時間に
男女が抱き合っていたりキスしたり。
で、わたしは担任に「とにかくやめさせてくれ」と
頼んだら、その体育の女教師は「だいじょうぶです、
あの二人は別れましたから」と堂々と言っていた。
わたしが大学生のときに
バイトを掛け持ちすることがあった。
午前中は、朝日出版社の配送のしごと、
夜は渋谷のビル掃除である。
ビル掃除のバイトは、
もちろん、正社員らしいおばさんとおじさんも
いらっしゃったが、半分は、わたしのような
学生である。
仕事がおわる7時ころから2時間くらい
事務の机を拭いたり、掃除機をかけたりした。
で、翌日、クレームである。
4階のどこそこの机が拭かれていなかった
ということでお叱りをうける。
で、こんどは念入りに拭くと
「書類を動かした」とクレームがはいる。
どちらにせよ、叱られることになる。
そのときに、わたしは「身分」という語が
身体のなかに沁みついている気がした。
あげく、エレベータに乗るとき、
掃除機をエレベータの扉にぶつけると
「こら、ぶつけるんじゃない」と
守衛さんに怒鳴られる始末。
掃除係は守衛さんよりも身分が低いのである。
そうやって、職場でもバイトの場でも
ずいぶん下の世界をみると、
やはり、世の中のある部分が見えてくるような
気がしたものだ。
いや、もっとつらい下の世界があるだろうが、
すくなくともアッパーミドルの世界ではない
ことは確かだった。
それだからか、わたしは
横浜の高校で20年間、ずいぶんひどい目にあわされたが、
それもじゅうぶん耐えることができたのだ。
それは、オプティニズムでもペシミズムでも
ないような気がする。
世の中の本質はひょっとすると「諦念」なのではないか、
さいきんつくづくおもってしまうのだ。