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作者の死

 ・あかねさす紫のゆき

標野ゆき野守は見ずや君が袖ふる

 

人口にカイシャした額田王の歌。

ま、いまでは、この歌は、

大海人皇子にむけての恋歌でもなく、

中大兄皇子へのあてつけでもなく、

祝宴における賀の歌であることは周知のことである。

編者の大伴家持もこのうたを「雑」に

カテゴライズしていることからして、

当時からそういう理解の共有があったろう。

 

 額田は、巫女としての地位と、

宮廷歌人的地位を有していたらしい。

額田を宮廷歌人とよぶひとは

たぶんいらっしゃらないとおもうけれど、

その場の「要請」に応じて、

歌を披露するという態度は、

宮廷歌人とよぶにふさわしいのではないか。

 

 その場の要請によって詠まれた歌は、

その場にふさわしくおおいに盛り上がったにちがいない。

それは歌を享受する人々があってこそ

成立する文芸様式で、これが和歌の急所なのだろう。

 

 エマニエル・レビナスは、

こういう仕組みを「懇請」とよんだ。

テクストから意味を読み出す「読者の主体的介入」のことである。

ロラン・バルトは、「テクストの統一性はその起源にではなく、

その宛て先にある」、

つまり「宛て先」という読者、

その誕生と、「起源」という作者、

その死という論を打ち立てた。

 レビナスやバルトの言説が、

古代和歌にどれだけ妥当するかははなはだ

疑問ではあるものの、

共有するものがあるようにおもえてならない。

 

 ・電話口でおっ、て言って前

みたいにおっ、て言って言って言ってよ

 

 現代歌人の才媛、東直子さんの歌。

わたしが、まずおもうことは、

この作品に、読者の場の共有がない、

歌に含意がない、という二点である。

つまり、東直子を「なぞる」こともできるし、

東直子の「ふり」をして味わうこともできるが、

読者の主体的介入ができないのだ。

これは、バルトのことばを借りれば、

「作者の死」ではなく「作者の蘇生」にほかならない。

 読む態度として、カラオケで、

歌手とおんなじようにマネして歌うひとに、

「うまい、うまい」と持て囃す風潮があるが、

そういうのに似ている。「作者の蘇生」が

現代短歌の水面下で脈々と始動しているなら、

すでに、(これも、バルトのことばを借りて言えば)

「読者の死」がはじまっていることにほかならいのだ。

 

奈良時代をおさらいしたらいかが。