しだいに閑散としてきたわが町に、
また百円ショップができた。
これで三軒目。あんなに廉価じゃつぶれないものかとおもうが、
町はずれのショップの店長に訊いたら、
日曜日など百万円くらい売り上げがあるそうだ、
純利が二割らしいので、
一日で二十万円ももうかるのだ。
大学出の初任給くらいは取れてしまう。
百円ショップは楽しい。
わたしもついつい店にはいってしまう。
とにかく安いんだから気楽なものである。
百円ショップに立ち寄ると、
なんだか要らないものまでせっせと買ってしまう。
百円ショップにお目当ての品があっても、
とりあえず、必要に迫られないくせに
店内をぐるり一周してみたくなるのが人情である。
この人情の中身は、なんかいいものないかなあ、
なんておもうほのかな期待感であろう。
が、しかし、百円均一なのだから、
じつは、いいものなんてないのである。
おまけに、このばあいの、いいもの、
というものは後から捨ててもいいもの、
つまり兵隊さんの位の低い、いいもの、なのである。
が、ここに百円ショップの急所があって、
じぶんのなかに潜在的に足りないと感じていた
「なにか」をこの陳腐な商品が示してくれているのである。
消費者は、ブリキでできたフォークや、
うすべったい書類入れや、くっつきの悪い吸盤や、
すぐに書けなくなるボールペンや、
正確に計れないストップウォッチなどをながめながら、
いちいちその商品のわが家での置き場所を想像して、
要るか要らぬかを判断する。これが買い物の楽しさなのだ。
つまり、じぶんから照射した不安定なベクトルを商品が受けて、
その商品はこの不安定なベクトルをちゃんとアンサー、
要不要というデジタル信号に近いほど単純な形で
じぶんにはね返してくる。
これによって、じぶんの奥底に眠っていた不足感、
「なにか」を満たすことになる。
つまり無意識の具現化ができるのだ。
これが「じぶん発見の旅」なのであり、
百円ショップのばあい、ヴィトンのショップで
ショルダーを買ったり、
エトロのペイズリーを買ったりというのとは違い、
じつに廉価でお得な旅が安直にできるのである。
あ、これあれば便利かな、こうおもったら、
それはすでにまんまと百円ショップのメカニズム、
陰謀にはまってしまった証拠なのだけれども。
しかし、ここに危険な結末があることを
忘れてはならない。百円ショップに通いつめた結果、
じぶんの部屋はもはや百円の品物が氾濫しているのである。
この事情については、われわれは、
ダイクマやドン・キホーテでじゅうぶん経験しているのに、
性懲りもなく「百円ショップの部屋」とでもいうべき
空間を作り上げているのだ。「百円ショップの部屋」は、
まるで高度文明のアンチ・テーゼのように低俗で、
そこには、おのず文化も思想もない。
もちろん、じぶんの生活空間がこのように
空疎で貧弱になってしまったことに関し、
百円ショップの店に責任はない。
吉野家で昼をすまし、
マクドナルドを夕飯にするといった食文化の破壊も、
食品業界のせいにはできないのとおんなじで、
つまりは買う方、消費者がわるい。
われわれは、つい安楽な道をたどり、
けっきょく国民的な規模で文化レベルを
極端に下げ続けているという事情に
無関心すぎるのではないか、わたしはそうおもう。
子どもに迎合する父母、
生徒の言いなりになる先生、
いま、子どもとはいえ、人権だ、平等だ、自由だ、
と謳われているとき、たしかに
体罰も強制もできかねているのは事実だが、
そうかといって、子どもや生徒の言いなりになってしまったら、
それこそ、そこには「百円ショップの部屋」と
おんなじ空間が作り上げられているという
現実に気づくべきだ。
しかし、子どもの意見にだって美点はある。
大人の気づかない視座がかえって大人を
仰天させることもある。
だが、子どもや生徒^
の追従(ついしよう)は、長い目で見れば、
下り続けるエレベータにいるようなもの、
文化も思想もない空疎な「百円ショップの部屋」、
それだけが残っているのだ。ようするに、
教室でいねむりを許せば、
すでに生徒の眠るという意思が反映されていることになり、
その教室には「百円ショップの部屋」が
具現化されたということになるであろう。
そこで、わたしは気づいたのだ。
子どもや生徒の言いなりにはならないぞ、
迎合してはいけないのだ、ということに。
雀の学校の先生は、
ではじまる童謡が歴史から葬られたが、
ムチをふりふりチィパッパのくだりがいけないらしい。
学校の先生がムチを振ってはいけないというのである。
体罰を象徴しているからなのだろう。
しかし、いまの学校教育の荒廃ぶりを見ていると、
雀の先生のような体制こそ、望ましい教育空間なのではないか。
すこしは強制させて、ムチを振り上げてはどうか。