ある歌友にたずねてみた。
・ふと見れば裸の木々に顔を出す小さき新芽の逞しさかな
この歌どうおもう?
と、彼女の返答は
「『ふと』初句にいきなり
この言葉・・『逞しき』もどうなんでしょう。
これ素人さんですね」
やはり、「ふと」は気になるのでしょう。
「はい、私は生徒に『絶対に使うな』と言っている
言葉です」と付け加えられた。
「絶対」の使い方がおかしいけれど、わたしは
「はい」と答える。で、こう質問した。
「・幼な子の発語のごとく裸木に新芽の先のやわらかきこと
これは?」
と、「ウンベラータの新芽は、かたいですか」
とのご返答。そして
「新芽は身を守るために、そんなに
やわらかくないかもしれませんが、
柔らかいと感じたのだが作者なら、
とやかくいうとはないかも
しれません」と教えられる。
おっしゃることはわかるのだが、
なんでここでウンベラータが登場するのか、
新芽は固くありませんよ、となぜ
指摘するのか。
たしかに、作者がやわらかそうに見えたなら、
そこを指摘することはない、それは正しい。
歌の批評というときに
まず、根本的なことだが、
作者の感じたことを否定することはない。
してはいけない。雨雲を「灰色」と表現せずに
「紫色」と感じたならそれは認めなくてはならない。
つまり、じぶんの経験でものを言ってはならない、
という掟があるはずである。
じぶんの物差しですべて評価してしまうことを
「経験読者」という。
短歌にかぎらず、作品に対する評価は
経験読者であってはいけないのである。
短歌としての骨格、あるいは「姿」を
どう評価するのか、そういう姿勢を
「モデル読者」という。
新芽がやわらかく見えたなら、
モデル読者なら、そこは認めねばならない。
ウンベラータの新芽は固いですよ、
これは経験読者である。
あら、この歌、よくわかるわ、
と、褒めるひとも多いが、
「よくわかる」も経験読者の常套句である。
・寒空に一つの新芽幼な子の笑いように芽生えはじめる
これは?
と、彼女は「これは良いと思います」とあった。
ありがとね、あとの二つはわたしの添削ですよ。
何十年と歌をつくってきた歌友である
彼女の作品はどういうものか、
ご披露する。
・たんぽぽを摘みて揃えて手に持ちて達也の魂は蒲公英になる
・警戒をしてゐないのか両耳をこちらに向けて構つてポーズ
・垂れ下がる両頬の下に口がある見えづらいけれど確かにあるの
・おつとりとされるがままにされてゐてにやんとも言はぬあつぱれにやんこ
・もふもふの毛に包まれてセレブ感ただよはせゐるエキゾチックショートヘア
ま、こういう作品をすばらしいと評価するひとが
いるなら、きっとすばらしい作品なのだろう。
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