短歌をはじめて
38年目である。いまをときめく若手歌人の
年齢が37歳とかいうから、そのひとの産声と
ともに短歌をはじめたことになる。
だから、短歌がうまいとか、そんなことはない。
なぜなら、有名になっていないからだ。
わたしと同世代のお母さんが
たまに短歌を詠むようになった。
・ふと見れば裸の木々に顔を出す小さき新芽の逞しさかな
こんな歌である。わたしの師匠から、
まず叙述がとおっていなければ
ならないと教えられているので、そこは合格である。
そして、新芽のほころびる姿を詠むところに
なんの間違いもない。だから歌であるといってよい。
初心者にしては上出来だ。
ま、初心者にあまり欠点をもうしあげるのも
可哀そうだが、これから伸びしろをかんがえて
あえてもうしあげるが、まず、
「ふと見れば」は、短歌というものは
いついかなるときも「ふと見た」光景を写し取るもの
だから、「ふと見れば」はいらないかもしれない。
また「裸の木々」と、すこしロケーションがボケている
気がする。複数形だからね。
もうすこしクローズアップする必要が
あるのかもしれない。
「顔をだす」と「新芽」と意味がかぶるおそれもある。
最後に「かな」はすこし古い用法だ。
たしかに、裸の木に新芽の芽生えは
たくましいことこのうえないのだろう。
では、38年目が彼女の歌をモチーフにすこし
変更してみる。
・寒空に一つの新芽幼子の笑いのように芽生えはじめる
「新芽」と「芽生え」がかさなっているのがキズかな、
とじぶんでもおもうが、新芽のひとつに視座を充て、
裸の木々は省略し、比喩表現を加味させて、
たくましさも除外した。
どちらがよいかは読者が判断することだが、
わたしとて、即興でつくっているから
佳作であるとはおもわないが、すこしは短歌らしくなったのではないか。
また、もうひとつ、こんふうにしてみた。
・幼子の発語のごとく裸木(はだかぎ)に新芽の先のやわらかきこと
なんか、正岡子規の二番煎じのようだが、まあ、お許しを。
短歌の題材はどこにもころがっている。
それをどうコトバにするか、そして短歌というものは
コトバの送り物だから、あけるのは読者である、
という一点に気を付ければ
どんどんうまくなってゆくだろう。