広島の夏は暑かった。
川西安代さんの発案、
大峰山に甲村先生の歌碑を建立しようということで、
ナイルの同人が広島に集結したのだ。
大峰山は広島湾や四国の山々まで展望できる
県の百名山のひとつである。
その中腹に川西さんの別荘があり、
そのすこしくだったところの公園に
甲村先生の歌碑を建てるという話になったのだ。
川西さんは、先生の一番弟子で、川西さんも先生を慕っていた。
甲村先生は、けっしてひとの作品に添削をされる方ではなかった。
「もし、その人が大歌人になったなら、
それに添削などしてたら顔から火が出るくらい
恥ずかしいことだよ」とおっしゃっていた。
晩年は歌会でけっこう添削をされていたところをみると、
ナイルから大歌人は排出しなかったということなのか、
それはわからない。添削もしないかわりに、
お褒めをいただくことも。まずなかった。
わたしごとでもうしわけないが、
わたしも褒められることはなかったが、
いちど、タクシーの中で
「よく、あんな言葉がうかぶよな」と
ぽつりと言ってくださったことがわすれられない。
『夢の舌触り』という宮野克之さんの
歌集のタイトルにも先生は興味を示され、
先生の作品にも「舌触り」が一首あったのではないか。
「夢の舌触り」、わたしも
「よくあんな言葉がうかぶな」とおもったものだ。
大峰山の坂道はひどく急で、
おむすびでも転がるものならふもとまで
落ちてゆくような場所である。
その山の中腹に、川西さんは、
遠方の歌友を集めるため、
ご自身の別荘のひとつ坂のうえに
もうひとつの別荘を用意してくださり、
そこに先生をご招待した。
彼女がチャーターしたマイクロバスで
途中まで来たが、
二つ目の別荘にゆくのには急坂をせっせとのぼるしかなかった。
七、八名が、その別荘に一晩泊まって、
なぜか朝食はわたしの仕事になった。
卵を焼いたり、ソーセージを焼いたり、
サラダを作ったり、八人分のなんとも
簡素な料理だったが、「こんなうまい朝食ははじめてだよ」。
いつもの先生なりのお言葉。
短歌では褒めない先生は、こういうときは評価が甘いのだ。
「あら、わたし、いつも、このくらい作っているわよ」。
これは、奥様のひとこと。氷室敬子という
奥方ににらまれると、底知れず怯える日が続くのだ。
だから、わたしは、そういう誉め言葉はやめてください、
と心の中で念じていた。
甲村先生は、仲間を大勢こしらえることを
得意としていたが、
その仲間と喧々ガクガク言い争いをして、
すべてを失うことも得意としていた。
だから、「ナイル」という同人誌は、
大所帯になることもあったし、
少数精鋭の時代もあった。
そんな紆余曲折のなか、
もっとも先生のそばに君臨していたのは
小村井敏子さんだったろう。
そして、その腹心として濱谷美代子を
忘れてはならない。
また、「ナイル」の巻頭には
先生の作品の横にかならず
住谷さんの作品が配されていたことも付記しておく。
さて、歌碑建立の朝、
先生は紋付き袴といういで立ちで
颯爽と坂道に立った。
はるか山の中腹の公園では、
甲村英雄を迎えるための広島の弟子たちが、
大きく手を振っている姿が見える。
彼女らは、先生を呼んでいるのか、
こっち、こっちという仕草が見える。
先生は、大峰の急坂をすこし転がるように
着物の裾をめくって下りてゆく。
「先生、なんか、揶揄されているようですね」と、
わたしは言わなくてもいいことを言ってしまったが、
先生は「うん」とおっしゃり、
でも、すこぶるご満悦のようすであった。
・ささがにの雲燃えてゐる平成の大峰山は我の思ひ出
これが歌碑に書かれた甲村短歌である。
つい、さいきん、広島の河内さんに電話をした。
先生の御作を失念していたから、
河内さんに尋ねたのだ。河内さんは、
すらすらと先生の作品を教えてくれた。
さすがだね。
「ねぇ、この歌、いい歌ですか」と
私が河内さんに聞いたら、彼女は言下にこう答えた。
「いい歌じゃよ」
歌碑建立の旅、暑い夏の日の思い出である。