わたしの友人が「X」でこのようなことを
つぶやいた。
長いけれど、引用する。
「近所にイオンがあっ買い物が楽になった。
さすがにスーパーが一個もない日とは、
生活のしやすさが違う。
なんと豊富な品揃え、選べるって本当
素敵ね。最近のひとが自分で選んで決めるのが
至上の価値がある、と考えるは
みなショッピング・モールに慣れすぎた
からではないかと。
例えば、平気で夫婦がかわいいからって言って
キラキラネームつけようとするじゃん、
それはどんな名前をつけても
親の自由だけど、ピカチュウって
名前をつけられた子供がどんな
人生になるかさすがに想像力があった
ほうがいい。
自分で選べることが重要だみたいな考え方は
時に病的で、人を傷つけます。
わたしは今回の件で、例えば、変えようのないものを
制度を無理に変えることで実現させようとする運動は、
病的か、ただのおもいあがりだと思うように
なりました。
そして、そのような価値観を
イオンモール的価値観と呼ぼうと思います」
「アトミズムと関係性」という広松渉のかんがえを
借りれば、世の中は個人、つまり原子がだいじで
個人があるから国が成り立つ、と考えるアトミズム。
関係性、世の中は仲間がいて、制度のなかにいて
それで国が成立するという考量。
と、大きく分けて二分する価値観がある。
イオンモール的価値観は、かれがいうには
超個人主義からうまれた制度改革である。
それを病的であると決定づけるのは
「御意」とは言い難いが、自己決定の
有能感が底流していることは
間違いないことだろう。
現代人はじぶんが決めたから
それが最善策だとおもいこむきらいがある。
だから、職場でもじぶんで生きているから
先輩なんぞ眼中にない、というような態度をとる。
「わたしは、わたしです」です。
儒教的精神のかけらもない。
世の中のながれは
かんたんに説明できないし、パターナリスティックに
「このようにしなくてはならないんだぞー」と
権威主義的に国がなってもいけないし、
それは論語の「よらしむべし、しらしむべからず」である。
じゃ、リバタリアン的に、
なんでも自由だ、どんなかんがえも「あり」だ、
では、よのなかカオスになる。
だから、ほんとうは、権威主義にならずに、
それでも、こっそり国民をなんとなく誘導してくれる
システムこそ居心地のよい空間になるのではないか。
これをナッジ理論というのだが、
イオンモール的価値観のひとには
通用しないことだ。
理性のおもいあがりは
ミッシェル・フーコーが言っているように
価値観の一元化をうむ。
頭のよいひとが善で、わるいひとが悪。
病気のひとは悪、健康が一番、
金持ちが善で、貧乏人は悪、のようなこと。
しかし、病におかされても幸せはあるし、
貧乏にもそれなりの幸福論はある。
フーコーは、すべてが理性に支配された思量だと断じる。
しかし、価値観の一元化のもと
個人主義が猛威を振るえば、みなおんなじ
かんがえになるのかといえば、
そうではない。
つまり、土俵はきまっているのだが、
その土俵の上で、相撲をとるのではなく、
ダンスをしても、将棋をさしてもいい、
なぜなら、わたしが決めたから、
という精神が醸造されてしまったのかもしれない。
たしかに、自由に買い物はできるし、
自由に選べる、が、そこには会計という
制度がまっているではないか。
わたしたちは、どんなに
自由にふるまおうが、制度に隷属していることには
変わらない。なんでも、おもいのままだ、
というかんがえにはどこか、なにかを
忘れていることがある、ということは
間違いないようだ。
が、いまのところ、これはアポリアである、
ということにしておこう。