小論文という科目がある。
大学生のにわか先生が
塾では高校生をおしえている
という風景はあたりまえとなっている。
また、小論文講座などという
参考書もずいぶん見る。
が、しかし、参考書はともかく、
小論文教師がみずから小論文の
実地の模範を見たことがいちどもない。
わたしは、生徒にいつも言う。
先生、模範的な文を先生が書いてください、
と言えと。
じぶんで書けないものを
ひとに教えるなどとは笑止千万である。
また、参考書どおりに書けば、
ほとんど、みなおんなじ流れと
書き方になるおそれがある。
いわゆるステレオタイプ、紋切型の
文章ができあがる始末である。
だから、わたしは
オリジナリティに富んだ文を推奨している。
それは、書く中身である。
起承転結、それはだいじな構造だとおもうが、
それよりも「なにを書くか」ではないか、と
わたしはおもう。
で、その中身だが、
「矛盾論」「認知的斉合性」「農耕民族性」「言語論」
「アトミズミ対関係性」
このくらいの棚を用意しておくのがよいだろう。
「矛盾論」とは、すべての社会現象は
従属矛盾であり、その根っことなる主要矛盾がある、
という考量である。いじめも差別も従属矛盾、
差別はいけませんよ、って言っても
それは世の中から絶滅するわけがない。
なぜなら、なぜ差別意識がうまれるのか、
という主要矛盾を解き明かしていないからだ、
なんて書く。
「認知斉合性」とは、ひとはじぶんの
都合のよい論理しかみえなくなるという
精神構造をいう。見たくないものは見ない、
聞かない、ということで、このキーワードを
中心に書く。
など、じぶんの知識の棚をいくつか
持っていて、どんなテーマであり、
かならずじぶんのフィールドに持って行って
そこで勝負する、ということを教える。
起承転結のスタイルが壊れていても、
内容がよいほうがはるかによい、
わたしはそうおもう。
しかし、大学生ほやほやのひとが
はたして、そういうことを教えられるのだろうか、
すこぶる疑問である。
「やばい」「まじで」「めっちゃ」なんて
日常しゃべっている若者に。