色白の娘は日焼けした肌に
あこがれるらしい。
その反対に小麦色の肌の娘は白い肌にあこがれる。
これは、いわゆる「ないものねだり」という
図式だけでは説明がつかない。
一日中、炎天にいたとみえて頬を火照らした娘に、
真っ赤になったねぇ、なんて言おうものなら、
なにをおっしゃるんですか、
わたしは小麦色の肌がいいんです、と叱られてしまう。
で、よく聞いてみると、
むかしから肌が白いね、と周りから言われ続けられて、
それがいやで、小麦色にあこがれているのだそうだ。
ということは、べつに美白とか雪のような肌とか、
そんなものが問題ではなく、
ひとから言われる、という行為への反発であったのだ。
とくに、この娘に関して言えば、この「ひと」という対象は不特定、
無差別であり、むしろ「言われる」という行為に
嫌悪感をいだいているのだとおもわれる。
このへんの事情は価値観の相違であるのだが、
「言われる」行為に陶酔できうるなら、
それは幸福だろうが、「言われる」ことが、
劣等感の琴線に触れているなら、
それは不幸としか言いようがない。
わたしどもの職場では、ふた昔前くらいの話だが、
「そんなことすると言われちゃうよ」という
セリフをよく耳にした。「言われちゃう」には
だれからどういわれるのか、主語も目的語もない。
対象の人物も不在だ。ただ「言われちゃう」だった。
だが、この悪意に満ちたひとことが自制心の起動にずいぶん影響したようだ。
ところで、「言われちゃうよ」という言葉にはきまって、
シーッとする仕草が付随していた。
わたしはあれがいやだった。
なにかじぶんがとても悪いことをしているような気にもなったし、
得体の知れないなにものかに監視されているような
気にもなった。また、シーッとする人物だけが
ものごとの道理をわきまえていて、
自分だけが無知モーマイであるような劣等意識と
苛立ちさえを感じていた。
ところが、さいきんは、この「言われちゃうよ」を
まったく聞かなくなってきたのだ。
ほとんど死語である。これは、職場という環境においては、
すこぶる快適であるかのように映る。
ま、陰ではあいも変わらず悪口雑言、
ひそひそとキツツキのいとなみのように
悪口は語られ再生されているのだろうが、
幸せなことにいっさい当の本人には
その校内放送は届かずにいる。
では、なぜ、「言われちゃうよ」が
絶滅しかけているのかと言えば、
それは、言う動作対象が、得体の知れないものから、
ひどく生々しい肉体として見えてきている、
ということにほかならない。
つまり、言うやつがだれなのか
かんたんにわかってしまうようになってきたのだ。
そして、その言うやつが、
じぶんと較べてたいしたことがないなら、
言わせておけばいいさ、
へたをすれば、言うなら言って見ろ、
おれはお前の悪行を洗いざらいぶちまけてやるぞ、
と居直り強盗ばりに鼻息荒くもでられそうな勢いである。
が、はたしてこの状況、
ややもすれば幸福にみえる
このステージにわれわれは安住してよいのか。
ふた昔まえの「言われちゃうよ」の時代は、
まだ、それでも上からの
(身分においても、能力においても、
そのことごとく上という意識があった)
圧力を感じていたものである。
つまり垂直の力が職場に流れていたのだ。
が、いまは、その垂直感覚が変形して、
水平の力に移行している。水平の感覚とは、
他との差異である。この差異は意味(能力)の
差異ではなく、形式(仲間意識)の差異である。
つまり、形式からはみだした個は
とうぜんはぶかれたり排除されたりされる。
すべての価値観が絶対的に正しいじぶんという存在を
中心とした仲間の視座で善悪が語られている。
絶対的に正しいじぶんとは反省も努力もない
じぶんと等しい。垂直の力が万有引力のように
はたらいているなら、いつでも、じぶんという
存在は上からの圧力に、いちいち補正訂正せざるを得ない。
じぶんを絶えず、じぶんで監視し、
すこしでも上を目指して内省したり、
精進したりせざるを得なかった。
が、水平の力学は、他との均衡だけを考えるから、
じぶんのかけがけのない修行は記憶の形状から抹消され、
他とのバランス感覚でのみはたらく。
そこからは、迎合と排除という横の感覚だけが作動している。
そういう職場では、馬鹿でも出世する、
という簡単な方程式が成立してしまう。
なんにもしない(あるいはできない)腰巾着、
ごますり、が幅をきかすのだ。
日焼けをしたいという娘は、
それでも、ひとから言われるのをいやがっているのだから、
それが幸福なのか、不幸なのか、
それはわれわれが決めつけることではないが、
すくなくとも、進歩という未来が
あるようにおもわれるのだ。