曾祖父母の記憶がない。
母がたの祖母はプロレス好きで、
なんとかとかいうレスラーは回復力が早く、
二三度腕をぐるぐるまわすと元気になり、
すぐまた闘える、なんていう話を、
わたしどもが遊びに行くたび、かならずした。
日に何度もした。こちらも毎回聞くプロレスの話は、
最後は腕を回すだけで回復するなんとかという
レスラーのところにたどり着くのは知っているから、
心をひろくもって、遠山の金さんや水戸黄門のような
冗長な時代劇を見るごとく、
おんなじ着地をじっくり待っていたものだった。
祖母には八百長という文字はなかったのである。
が、その祖母の父さんも母さんも、
わたしは知らなかったし、
おしゃべり好きの祖母もプロレス以外の
話はわたしにはしなかった。
また、厳格だった祖母の夫、
つまり祖父の、その両親についてもわたしは知らなかった。
父がたの祖父母とは同居していたのだけれど、
その曾祖父母の話も聞いたことがなかった。
ということは、つまり、わたしには四人の祖父母がいて、
いずれも記憶にしっかりとどめているのにかかわらず、
こと曾祖父母の事情となると、
その誰をも皆目知らずじまいなのであった。空欄なのだ。
わたしという存在がこの世に誕生するのには、
算数が弱いわたしが計算しても、
すくなくとも、二人の両親と四人の祖父母と
八人の曾祖父母の存在が必要なのに、
その曾祖父母のひとりも知らないとは。
しかしながらこれが、日本という国の
事情なのではないか。
ほとんどのひとが、曾祖父母のデータをもっていない。
アメリカ合衆国はその点、
歴史が北海道くらいしかないから、
ことごとく調べがきいて、
ファミリーチャートを作成している家もある。
なにしろ、ファミリーチャートのための図書館まである。
そのファミリーチャートの現物を見せてもらったことがあるが、
蜘蛛の巣のように無限にひろがってゆく、
膨大なものだった。マザー、ファザー、グランパ、
そのまたグランマ、などなどとそれぞれに
生没年月日が施されて、
風呂敷大のその紙の中心にじぶんがいるのである。
が、わが国は、曾祖父母あたりからすこぶるあやしくなって、
あとはほとんどまゆつばな家系図があり、
最後は、藤原鎌足あたりに落ち着くのである。
このような日本的風土をじぶんにあてはめてみると、
わたしの曾孫が存在している近未来に、
はたしてわたしの存在はあるのだろうか。
いや、おそらくは、わたしのなかの
曾祖父母にある空白の感情とおんなじ存在になっているはずなのだ。
ようするにわたしの賞味期限は孫の代までで、
それ以降は、無となっているのである。
ま、卑弥呼や額田王、大隈重信や西郷隆盛や
徳川家康くらいになれば子孫が代々語り継ぐだろうけれど、
だからといって、わたしはじぶんの名前を残そうなんて
感情はわずかもわいてこない。
なんだか、こんなことを考えていると、
努力も精進も意味が薄れてくる気もするが、
では、なぜ、名誉欲などがわかないかといえば、
きっと、にんげんは種族保存の本能のままに
おもむいているからだろう、とおもうのだ。
じぶんのDNAさえ次代に植え付ければ、
主目的は達成されたのだ。
名前やその人となりといったソフトのパッケージは
どうでもいいのである。
種馬、しがらみの多いタンポポの綿毛である。
おまけに、将来的にじぶんの存在が微塵も残らなくても
苦痛はないはずだ。それがいい証拠である。
ということは、DNAは後天的に改良されることはないから、
やっぱり、DNAというハードをわたしは
わが肉体ではぐくみ守り、
できうるなら、わたしという存在によって
それが破損する前に次世代に譲渡するのが、
もっとも正しいにんげんの道なのではないか、
そうおもってくるのだ。これを曾祖父母の法則とよぼう。
宅間守の死刑が執行された。
おもうように児童を殺害して、
ひとかけらも反省の色をみせず、
じぶんのおもうように死刑になった。
はやく殺してくれ、という要求を官が受け入れたような
異例の速さで執行された。ここに賛否両論があって、
早すぎる執行は、第二の宅間をださないための
反省がなされていない、
つまり宅間を醸成した国の屈折した箇所には
触れていない、とか、たとえ殺人犯でも、
官が民の生命を絶つという仕組みが許されるのか、
とか、否の意見も多く飛び交うこととなった。
が、宅間にはこどもがいたかどうかはよく知らないが、
宅間家の遺伝子を次世代に引き継ごうとした
心的作用は彼のなかにはたらいていたにちがいないから、
彼は彼なりに人生は成就されていたのかもしれない。
こういう考え方が、曾祖父母の法則である。楽になるでしょ。
ただし、わたしが、唯一、気になるのは、
他者を殺すのも自分を殺させるのも、
宅間のおもうままに事が進んだところである。
死刑だけは、おもいどおりにはさせず、
じわじわ、ゆっくり、執行させてやるのが、よかったのではないか。
きょうは指の爪はがしますよ。
はい、きょうは箪笥の角で小指をうちつけてもらいますね。
痛いですか。
こんな具合に。
ま、それはそれとして、
曾祖父母の法則の功罪は、
人生の失敗も失敗ではなくなり、
すこぶる楽になる。
が、反対に凶悪犯も深刻な問題からずれてしまうし、
アイデンティティの充足にもつながらない。
ひとの向上心が阻害するおそれまである。
こんなふうに考えてゆくと、
なんだかひどくアンニュイになってくる。
個人主義が反映されないからだ。ナルシストなんて意味もなくなる。
でもそれじゃああんまりにもつまらないから、
せめて生きているあいだは元気でやろう。
こう考えるのもいたって自然ななりゆきだ。
せいぜい頑張りますか、腕をぐるぐるまわして。