男女平等が
とうぜんの世の中、夏目漱石の時代には
かんがえられなかった風潮である。
『こころ』の先生の奥さん、もとはお嬢さんは
Kの自殺の理由も知らないし、
先生の自殺の理由も聞かされていない。
先生の自殺の理由を知る者は、
まったくの他人の学生である。
男尊女卑と言ってもよいような話かもしれない。
しかし、奥さんがかわいそう、あり得ないはなしだ。
同性婚という語が
語義矛盾だと言って、ネットでさんざん
叩かれた友人を知っているが、
どうも男女平等、ジェンダー理論からすれば、
語義矛盾を声高にいうのはご法度のようだったらしい。
こういう時代、
生まれてきたときから、
その子には男女、どちらにするか、
みずからに決定権があるということだそうだ。
男で生まれようが、女になることも許されし、
その逆も真である。
わたしども、昭和のニンゲンには
理性と同等の本能が備わっているから、
男で生まれたいじょう、男をつらぬくのが
あたりまえのような気もするが、
それは、いけない思量らしい。
ただ、気を付けなくてはならないのが、
SNSの、SNSのインフラも整っていない
急速な普及により、尖った意見もまかりとおる、
という事態を、すこし離れた場所から
見極めなくてはならない、ということである。
オルトライト言説がその一例である。
オルタナ右翼と言ってもいいが、それは
ひじょうに少数派のひとたちなのだが、
そういう輩が、ちょっとの、男女は平等かなって
疑問をなげかたりすると、
そこに乗じて、やんのやんの騒ぎたてるのだ。
そういう人びとがSNSを牛耳って、
マジョリティの意見のように見えてしまうが、
オルタナ右翼は、ほんの数パーセントしか
存在しないらしい。
が、SNSなどで、さかんに
文句を言うひとたちは、
まるで、当事者でもないくせに
当事者に憑依してでたらめに近いことを
言うこともあるようだ。
佐々木俊尚さんの
「当事者の時代」という書物にそれはくわしい。
世の中、なにが正しいのか、そのマイルストーンを
もうすこしはっきり示してほしいものである。
たしかに、生まれてきたときに
性別を自由に選択できるという言説がただしいなら、
それをしっかり言語化してもらいたい。
なにもかも自由になるというなら。
しかし、それを主張するひとは、
きっと日本語で主張するだろう。
だって日本語話者だから。
でも、なんでも自由だよっていうひとが
日本語を話すのだって、自由なら、
日本語を選択するひつようだってないはずだ。
そう、生まれたときに、言語も選択すればいい。
韓国語、中国語、英語、どれを選択するのだろう。
しかし、無理だよね。
言語にかぎって選択する余地がないのに、
精神だけ選択できる、ま、それは矛盾とは言わないけれど、
これから先、日本が日本らしく進んでゆくのに、
窮屈な発想はどうかとおもう。
すこし、古代の精神を復習してみたらいかが。