非常勤講師の依頼が何件かきている。
もう、すっかり午前中の「ぼんやり」が
骨肉化してしまった私に
また、あの過酷な労働はどうかとおもい、
躊躇している。
が、依頼の内容を拝見すると
「アクティブ・ラーニング」に興味がある方、
とある。
アクティブ・ラーニング、つまり、
積極的な生徒の参加をうながす語彙である。
いままでの授業というものは
教師が板書したことをノートに書き写し、
ノートを暗記し、それを定期試験に
またそれを書写し成績がつく、
という流れがほとんどだった。
ほとんどが受け身であり、
教師も指導書を書き写し、板書し、生徒も
ノートに書き写す、という
「単なる、知識の移動」であったことへの
反省からなる発想が
アクティブ・ラーニングなのだ。
つまり、生徒の積極的な参加をめざす
授業形態のことである。
そのためには、生徒の自主性をうながすと
同時に、生徒の好奇心と想像力を要求するものである。
自由な発想をしよう、
そういっても、はたして、いまの若者が
好奇心と想像力を発揮できるのか、
じつにうたがわしい。
これだけ、スマホやパソコンや、
SNSが普及してしまったひと、
メディア・リテラシーはじゅうぶん
そなわったひとが、はたして積極的になれるのだろうか。
わたしたちは、現代、十二分に受け身の
人生を享受してきたからだ。
みずから切り拓く積極性がなくても
世の中、すべてがそろって机のうえや
手のひらに情報がころがっている時代、
山にのぼってまだ世の中にない高山植物をさがそう、
みたいにことをするだろうか。
それをきゅうに、さ、想像力を発揮しよう、
といっても無理ではないか。
アクティブ・ラーニングを提唱する学校が
見落としているのは、受動的な生徒に
能動的なふるまいを要求するところにある。
もし、自由な発想をもてた生徒がいたとしても、
それは、身勝手な方向にすすむおそれだってある。
ギターを自由に弾きなさいって
ギターを渡しても、弾き方もしらないなら、
ギターでボールを叩くかもしれない。
ギターに落書きするかもしれない。
つまり、学校の陥穽は、受動と能動の
ふたつの対立項しかもっていないところなのだ。
われわれの営みは、受動と能動だけではない。
中動態という行為がそこにはあるのである。
中動態というのは、
受動的なかまえていながら、
なにか外界から信号があるときに
能動的にふるまうという態度である。
野球をおもえば、ピッチャーが能動的なら
キャッチャーは受動的である。
が、バッターは、ピッチャーの球をまつのは受動、
そしてその球を打つのは能動である。
この行為を中動態とよんでいる。
ニンゲンはもともと中道的な生き物なのである。
雨がふるから傘をさすのである。
陽が強いから傘をさすのである。
ようするにアクティブ・ラーニングを
うまく順応させるには、いちど中道的な
授業の展開がひつようなのである。
どうやって、その教科を理解するか、
という根本的な教えをして、
そこから、生徒の自発的な発想がうまれてくるのだ。
まず、泳ぎ方をおしえて、
そこから自由に泳ぎなさいってプールに
いれるように。
いまの学校のアクティブ・ラーニング思考
そのものに間違いはない。
が、中道的な発想がないかぎり、
それは夢物語におわるにちがいないのである。