教え子だった生徒からlineがきた。
「『みんな』って2,3人を指すことが
おおいですよね。
と、相手が言った。
その話で今日、議論になりました。
僕、一般的にって言ったら、
大抵「僕の周りや経験」を指す。
何も本当に一般的なものを指していないし、
そもそも一般的なものは存在しない。
続けて、僕、常識なんて
そもそも存在しない、絶えず変化するものだ、
と注意したら、
「一般的なものと言ったら、
一般的なものを指せ、
言葉は正しく使え」つてなりました。
このlineは、だからあなたはどうおもうか、
というメッセージなのだろうと解釈して
いろいろとかんがえてみた。
まず、「言葉は正しく使え」ということは、
じつはむつかしく、どのレベルで正しいのか、
理数系のテクニカルタームとしての言語は
それなりの正しさはあるだろう。
「ゼロ」は「ゼロ」のように。
でも、日常の言語、
「これ辛口ですね」なんていう「辛口」は
ひとそれぞれだ。
ニンゲンの決まりでつくった語、
いわゆる専門的造語には正しさがあるが、
日常言語で「言葉は正しくつかえ」は
無理がある。
そのひとの履歴のなかで培った言語と
他のひとのそれとは、とうぜん食い違いがあるからだ。
それにそもそも、言語を過不足なく
言える人は世界に誰もいないのであって、
原語にはかならず含意、コノタシオンが存在する。
かわいいつていう語はブスがなければ
存在しないということである。
利口はバカがいないとこまる。
「おれってバカだからさ」というセリフには
「わたしはバカだと判断するくらいの
知性を有している」と語っている。
モーリスブランショは
「出来事は、言語化されたとき
その本質的な他者性を失って
既知の無害で馴染み深く
馴致された経験に縮減される」と説いた。
むつかしいことを言っているようにみえて、
内実は、ラーメン食べたとき、うまいって言う。
おいしいっていう。
この「うまい」も「おいしい」も個別的(他者性)な
言語ではなく、だれでも知っている
当たり前の(既知の無害で馴致された経験の)言葉
であり、じぶんの感情より「おいしい」「うまい」は
言葉的には、それよりちいさな感情表現(縮減)である、
と述べているに過ぎない。
「ことばは正しくつかえ」といった友人が
まず、どこまでことばの本質を知っているか、
そこから問い直すしかないだろう。
二伸
常識という概念はまたべつのときに話そう。
ただ、ひとつ言えることは、「常識だ」と言うときは、
心地よい思考停止をともなっている、ということだとおもうる