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「門」といえば「門出」とか、「入門」とか、

家庭と社会との境界であるとか、

さまざまな暗喩が用意されるだろう。

 

「羅生門」なら、京都、洛中にはいる境界であり、

芥川龍之介に言わせれば、

下人は雨やみをまつ施設であり、

下人で羅生門にはいり、盗人となって京都市内に

はいりこんでゆく、人間の節目の装置となっている。

 

 物語の主人公を識別するのに「境界を超える人物」という

分節のしかたがある。

 

 まさしく、「羅生門」の下人は、この門を超えた人物で
主人公と言ってよい。

 

 だから、「となりのトトロ」ではトトロの世界に

踏み入れた、さつきとメイが主人公であり、

「走れメロス」もメロスが主人公である。

 

 さて、もし「門」が社会と家庭との境界であるなら、

ヘーゲル的にいえば、社会は闘う場、家庭はやすらぎの場、

その二項対立、アンチノミーの境目、つまり、

社会的矛盾をつくりあげてゆく境界点となる。

 

そのアンチノミーの上部に配置されているのが

国家(人倫)だというヘーゲルの弁証法を支えている

要の地点、それこそが「門」ということになろう。

 

また、「門」は、「赤門」など象徴的に

語られることも多く、そこに入ることの

むつかしさの喩えとなっている。

 

それを、敷居が高い、というのだろう。

 

また、門学という術語もあり、

これは、そのひとの特性にかかわる語である。

 

呪術的側面も「門学」にあるようだが、

わたしにはむつかしくてわからない。

 

じぶんが社会の要請にたいして

はたしてちゃんと向き合っているのか、

それが「門学」の中身らしい。

 

夏目漱石の「門」は、ひとに語ることが

拒まれるような夫婦生活の内部が語られているが、

つまり「門」とは、その家庭内部への入口なのだろう。

 

しかし、「陰影礼賛」にあるような

谷崎文学の、しっとりとした、障子から

漏れる薄れ日のような室内が「門」の

奥にはあるように感じられるのである。

 

「月下の一群」のような

ヨーロッパの瀟洒なかおりが、

どうも日本の「門」には感じられない。

 

 

つらつらと「門」について語ってきたが、

結論などは用意していない。

 

読者様にとっては

きょうの話は「門前払い」ということかもしれない。