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一茶と良寛

 小林一茶と良寛さんとは

ちょうどおんなじ時代を生きた。

かたや信濃の柏原、かたや新潟、

越後国上山と地理的にもつかず離れずというところか。

 

・焚くほどは風がくれたる落ち葉かな    一茶

 

 これは一茶の句である。

もちろん俳句という語は正岡子規の命名だから、

当時の辞書に俳句という語はない。

一茶は、子供を失い、

妻にも先立たれ、

けっきょくひとりの身となり

信濃の雪ふかいところを安住の地とするのである。

 

・これがまあ終の住処か雪五尺

 

 一茶のささやかな幸福感がかもしだされた

一句である。その一茶が詠んだ句、

「焚くほど」、じつは、これは良寛和尚の句の盗作

、改作なのである。すでに良寛は次の句を故郷国上山の

五合庵で吟じていた。

 

 ・焚くほどは風がもてくる落ち葉かな    良寛

 

 「くれたる」と「もてくる」に異同がある。

たぶん、この句を仄聞した一茶がじぶんの

生活とあいまって「くれたる」に変えてしまったのだ。

これが作為か無意識か、そのへんの事情はさだかではないが、

悪意の見当たらない改作とみるのが人情というところだろう。

自然の流露だったのだ。

 

 しかしながら「くれたる」と「もてくる」とは

似て非なるもので、

ひいてはご両人の人となりの差まで

歴然と示す手がかりを含んでいることばだったのである。

 

「くれたる」と言えば、くれるんだから

そこに感謝の意が生まれる。

けれども「もてくる」には、そんな人的取引がない。

勝手にもってくるのだから自然にたいする

感謝の必要がない。

じゃ、一茶の方が兵隊さんのくらいが上なのか、

といえば、おそらくそうではあるまい。

つまり、良寛さんはすでに悟りの境地にお入りで、

自然と共存する姿勢がすっかりできあがっていたと見てよい。

のびてきた竹の子のためには我が家の

屋根に穴を開けてしまう禅僧と、

気軽にやってくる落ち葉とは一体、

家族となっているのである。

それに比べて、一茶には、まだ、

自然とは対峙するものであり、

その中にあって、逆境のなかを生き抜く

人間臭さをじゅうぶんそなえているのであった。

 

 ひとことのことばの使い方に、

お上品とか、お下劣とか、

そのひとの性情がにじみ出てしまうことを

われわれはじゅうじゅう心せねばとおもう。

箸の持ち方、気の配り方、お土産の選定などとおんなじだ。

 

 ちなみに、この句の比較はたしかどこかの

入試問題で見たので、内容上はわたしも盗作なのだ。あしからず。