「サツマノカミ」といえばキセル、
つまり不正乗車のことを言うのは、
もちろん、薩摩守忠度(ただのり)のせいで、
歴史上、薩摩守には何人もが歴任しているはずなのに、
ほとんどのひとが薩摩守と言えば、
忠度をおもうのだ。人口にカイシャしている。
『平家物語』でも、こと平忠度には同情的だ。
平清盛の弟で、武人で歌人、
文武両道のお手本のようなひとである。
和歌では、藤原俊成に師事しているから和歌の王道を歩んでいたし、
「熊野そだち大力(だいぢから)のはやわざにておはしけれ」と、
和歌山県出身、力もちで俊敏と『平家』は語る。
平家一門が、安徳天皇をたてて西海に下向するさい、
忠度は都落ちのお供をつかまつるのだが、
その途中、急きょ、彼は方向を変えて、
都に戻る、わが師、五条三位入道俊成卿に会うためである。
侍五騎、童一人のわずか七人の勢であった。
都は源氏の支配下にあったから、
文字通りの命がけの挙行である。
俊成の面会は、世に勅撰集のはこびの噂があったためである。
門を叩くや、俊成と会した忠度は、
「生涯の面目に一首なりとも、御恩をかうぶらうど存じて候ひし」と、
鎧の中から自選歌百首の巻物を俊成に手渡す。
俊成も、忠度の心意気に打たれ
「かかる忘れがたみを給はりおき候ひぬる上は、
ゆめゆめ疎略を存じまじう候」、
このような忘れ形見をいただきましたうえは、
けっしていいかげんにはいたしません、と涙ながらに語る。
その後、忠度は、一の谷の戦いで討ち死にする。
一一八四年、二月のことである。
矢を束ねておく「えびら」にくくりつけてあった
文にはつぎの歌が書かれてあった。
・ゆきくれて木(こ)のしたかげをやどとせば花やこよひの主(あるじ)ならまし
旅の途中で日が暮れて桜の木陰に宿るなら、
桜の花が今夜の主となりもてなしてくれるのであろうか。
おそらくは、辞世の歌としたのであろう。享年四十歳であった。
忠度の死後より三年、
七番目の勅撰集『千載和歌集』は俊成の手により
啓上される。そこには、
俊成に手渡した巻物に収められた歌一首があった。「故郷の花」と題し、
・さざなみや滋賀の都はあれにしをむかしながらの山ざくらかな
滋賀の旧都は荒れてしまったが、
昔のままの長等山の山桜であるよ。
しかしながら、いまとなっては朝敵、
「勅勘の人」となった忠度であるので、
俊成卿も作者を明記できず、
「読み人知らず」として『千載和歌集』に加えたのであった。