左右に別れ作品の優劣を競う歌合は
平安初期から流行した。
そのうち最大と言われているのが、
建仁元年(一二〇一)後鳥羽院の主催した、
千五百番歌合である。新古今集成立の四年前である。
判者は、権大納言忠良、師光入道、藤原定家ら十人。
三十人の歌人を集結、ひとりに百首ずつ歌を提出させた。
つまり三千の歌が判にかけられたのだ。
そのなかでもひときわ異彩を放っていたのが宮内卿。
源師光の娘で、正治二年(一二〇〇)後鳥羽院の官女となる。
一二〇四年ころに夭逝、二十歳前後とされている。
だから、千五百番歌合の時期は十六、七歳くらいというのが妥当であろう。
『増鏡』に、「(後鳥羽)院ののたまふやう
『こたみは、みな世に許(ゆ)りたる古き道のものどもなり。
宮内卿はまだしかるべけれども、けしうはあらずと見ゆればなん。
かまへてまろが面(おもて)起こすばかり、
よき歌つかうまつれ』と仰せらるるに、
(宮内卿ハ)面うち赤めて涙ぐみてさぶらふ」
というくだりがあり、
院の信頼もすこぶる厚かったし、
その名誉はもちろん、院の面目をつぶさぬために
ひたむきに応えようとする宮内卿のすがたが
「面うち赤めて涙ぐみ」から汲み取れないか。
「左」として宮内卿の歌。
・うすく濃き野べの緑の若草に跡まで見ゆる雪のむら消え
野原の草々に緑の濃いところと薄いところがある。
それは、冬に積もった雪がまばらに消えていったからだという、
春の情景に、昨冬の雪の景を推し量り、
重ね合わせた巧みさ。傑作ですね。
この対象物の捕らえ方の慧眼さは、
すでに佳境といってよい。
舌を巻く筆力である。これに対して、「右」の歌。
・谷の戸を出(いで)しも雲に入りにけり花に木づたふ野べのうぐひす
これも名歌なんです。やっと谷から出てきてしばらく
花に木伝っていた野辺のうぐいすだが、
それもすでに谷の雲の中に飛び去ってしまった、
というおもむき。
さて、この両者の判はいかなりやといえば、
みごと、軍配は宮内卿にあがるのだ。
じつは、右の歌の作者は、寂蓮。
すでに還暦を迎えたほどの
「世に許りたる古き道のものども」の最古参、
三夕の歌などで、定家と西行と肩をならべる歌人、
和歌所の寄人、あの寂蓮である。
歌人生命がかかるとまで言われる歌合だが、
彼女の歌の出来映えをみて、
ひょっとするとこの新古今集撰者も快く負けを
認めたかもしれない。
まあ、そのくらいの余裕もあったでしょうね。
そして彼女の誉れは、
これ以降「若草の宮内卿」と称されることであった。
ところで、歌合では、両者引き分け、
「持(じ)」という判定がすこぶるおおい。
今の世のように勝ち組み、
負け組みとそうかんたんには
決めつけなかったのである。