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学校の先生と予備校の先生

高校の教員を30数年し続けていたが、

いまは予備校に勤務している。

 

学校の先生は、予備校の教員よりも過酷である。

公立でも私立でも、文部科学省という

トップダウンのもと、とくに私立は、

理事長をトップとするヒエラルキーが

厳然とあってままならいものも多い。

 

また、公立は半世紀ほど前から、校長による人事考課が

導入されるや、点数稼ぎの、学級通信やいじめの

隠ぺいなど、良い方向に進んでいるだけではなかった。

 

わたしが20数年務めていた学校は、

組合いもなく、有給休暇もない職場だった。

さいきんは、職員室で携帯電話が使用禁止になったときく。

もちろん生徒さんは、教室でスマホをいじくりまわしている。

 

フィンランドなどは、

学習効率のよい国として認められているが、

その理由のひとつが、学校単位で、独自に

教育方針をもち、20数名という少人数のクラスで

学校運営をしていることが挙げられると聞いている。

 

日本ではとうてい無理である。

 

なんでも国が口をだしてくる。

 

「依らしむべし治らしむべからず」という

思量は明治時代だけではなく、

いまも、お前らは言いなりになっておれ、

という事情である。

 

いまでは、成績に「観点別」という項目が付加されたらしい。

めんどうだよ、それ。

 

つまり、小学校の通知簿のようになったのだ。

 

「ゆとり教育」で失敗をし、

性懲りもなく「観点別」などまた持ち出してくる。

 

 教育は、会議室で起きているのではなく、

現場で起きていることがわからないのだ。

 

 文科省に室井参事官はいないのだろうか。

 

 そして、そのほかにも学校の教師は

生徒それぞれの日常の行動などを記録しなくては

ならないし、生徒指導も日々、難儀である。

 

 とくに高校生は、加工することに

ステイタスがあるのか、女子はピアスをあけたり、

化粧したり、ソックスをだらだらさげたり、

男子もしかりである。

 

 校訓の基本は、自然のまま、なにもせずに来校してください、

というものである。

 

 化粧も香水も上履きをつぶすこともしなくてよい、

眉毛をそることも、髪を染めることもしなくてよい、

自然のままできてください、という

じつにシンプルなルールなのである。

 

 そのままの姿でくればいいものを

わざわざ、加工して校門をくぐるものだから

そこで注意されるのだ。

 

ぎゃくに、校則が「髪は染めなさい、

ピアスは3つ以上あけなさい、

できればタトゥーをいれて、化粧はかならず、

かかとはつぶして履きなさい」

なんてあったら、困るだろう。

 

「ほら、なんで化粧してこないんだ」

など、先生に怒られたらいやだろう。

 

 教員は、日々、そんなくだらないことに追われ、

部活動の顧問をひきうけ、試験問題をつくり、

採点をし、こまかく成績処理をする。

 

 また、校務分掌があるから、

管理部、教務部、生活指導部、どこかに所属し、

あげく、入試問題も作成しなくてはならない。

 

 だから、教員のもっとも最後のしごとはなにかといえば、

授業なのである。いちばん、大切にしなくてはならない

授業が二の次、三の次になってしまう。

 

 授業には、授業前の準備、つまり

教材研究というやつが必要である。

 

 が、教材研究をするのに時間や暇がない。

 

 で、やむなく、おおよその教員は「指導書」という

分厚い書物を読み、教科書に書き写し、

それで教室に行く、という始末である。

 

 わたしが教育実習生を担当したとき、

その学生が開口一番、「指導書」を見せてください、

とわたしに言ってきた。その学生の父親が中学校の

先生だったからである。

 

 わたしは唖然とした。

 

 教師をなめているのかとおもった。

 

 わたしは、指導書をほとんど見ないで

授業してきたから、余計そうおもったのかもしれない。

 

「指導書などありません」

わたしは、きっぱりと断ったが、きっと、

かれはわたしを怨んだろう。

 

 はなしをもどすが、けっきょく、

いちばんの被害者は、生徒なのである。

 

 もっとも信頼している担当教員が、

ただ指導書を黒板に書き写して授業ですって

言っているようなものだからである。

 

 これは指導ではない、移動である。

 

 だから、生徒に読解力がつくわけがない。

答えしかおそわっていないのだから、

 

 その点、予備校の教師は、試験はつくらないわ、

生活指導はないわ、試験監督はないわ、といいことづくめである。

 

 が、指導書がないぶん、みずから、

指導法を案出しなくてはならない。

そして、学生に読解力を身に着けさせねばならない、

という至上命令がある。でないと、すぐ解雇されるから。

そして、教え方のうまい教師が、自然淘汰されて

予備校にのこってゆく。

 

受験生は、公開模試で高い偏差値をもとめているから、

学校じゃ「だめ」ということになってしまい、

予備校の教師のほうがすぐれて生徒に

見られているのもそういう事情があるのかもしれない。

 

 ただ、予備校の教師でほんとうに教員免許を

取得しているひとがどれほどいるか、わたしは知らない。

 

 教員免許があれば、だれでも予備校ではなく、

学校の教諭をめざすだろう。

 

 だから、学校の先生は、予備校の先生を見下ろすような

物言いをする。だが、蓋を開ければ、指導法などがない、

という、矛盾のようなものが渦めいているのが、

いまの教育界なのではないだろうか。