ザ・ファブル の 22巻に載っていた
歴史家トレベリアンの言葉だが、
「教育は、本を読むことができるが、
読むに値する本、それがわからぬ
人々を大量に作り出した」
とあった。
わたしは、トレベリアンというひとを
しらないのだが御意だろう。
つまり「読むに値する本」を探すという行為は
能動的なふるまいである。
ニンゲン怠け者説という言説はあるけれど、
ひとは、なにかの刺戟がなければ動かない、
ということはむかしから言われていたことである。
が、さいきんは、
スマホやインターネットの普及により
その言説が加速度的に高まってきた。
世の中のおおくが受動的になってしまったのだ。
大学の学部選びでさえ、
大学などどの学部でもいいはずなのに、
その内部空間でじぶんがすきなことを
学べばいいだけなのに、
いったい、その学部ではなにを教えてくれるのか、
そこに特化して学部をえらぶ学生が多い。
与えられるものに頼らず、
じぶんで道を拓き給えよ。
そこでは、わたしになにを教えてくれるのですか、
これだけなのだ。
OECDでは、就学児童のリテラシーについて
世界的な統計を取っている。
つまり、PISAと呼ばれる国際的な学習到達度に関する調査で、
15歳児を対象に読解力、数学的リテラシー、科学的リテラシーの三分野について、
調査している。ま、日本はトップレベルらしいけれど、
それでもリテラシーなのだ。
いわゆる収集能力であって、発信能力ではない。
内田樹さんは、リテラシーはたしかに情報収集能力だけれど、
リテラシーはおのず発信能力もあるはずだと説いているが、
やはり、いまの若者は、すべてが「受け身」の姿勢である。
インターネットから取り組む情報の
受け取り方のしかたは、ひどく巧みだろうが、
わたしが懸念することは、
じぶんで調べろよ、じぶんで動けよ、という一点につきる。
ニンゲンがこれほどまでに
進化をとげてきた原動力は
「好奇心」だと言われている。
なぜ森を出たか、アフリカを出たか。
そこには、不便な土地柄というものが
あったことは認めるし、
いまの安全、快適、便利な世の中、
そこから、どこに出ればいいのさ、って
いうかんがえもわからないこともない。
いまの世の中は、好奇心をもたずに
すむ世界なのだ。
だから、趣味も、読書、漫画、ゲーム、
すべて、他所から与えられたものの享受なのである。
釣り、登山、旅行、
こちらから能動的なはたらきをする趣味のひとが
すくなくなっているのは事実だろう。
だから、このまま、このような事態が
すすめば、おそらくニンゲンは容易に
滅ぶのではないか、とわたしはおもうのだ。
こんなことをファブルという漫画から
かんがえたこともけしておれも能動的ではないと
自戒しながら、しかし、
ファブルという漫画は、
殺し屋のものがたりだから、
殺し屋が受動的だったら
仕事にならないつもお世話になっております。よな、
なんておもったりもした。