地元の小学校の「地域連絡協議会」のメンバーとして
20年ちかくお役目をいただいていた。
PTA会長や同窓会の会長をつとめていたからだと
おもうが、小学校の校長、副校長、
その当時のPTA会長や地域のお歴々
10数名で年に3回ほど集まって
学校運営などの報告をうける会議だった。
ほとんどが校長先生からあいさつで終始した会議で、
たぶん教育委員会への「形作り」の集まりだったのではないか、
とわたしはおもっていた。
だから、たまたまの意見をもとめられたとき
「この会議は、連絡協議会とありますが、
実質は連絡会であって、協議したことはありません」
ともうしあげたことがあったが、
一笑にふされたことをおぼえている。
当時はわかい校長で、
また、さいきんは児童ひとりひとりに
アイパットというシロモノをもたせた
いっしゅのIT教育がすすんでいることを
鼻高々にお話しされていた。
「美しい花などをみつけると、
それをアイパットで写しておばあさんなどに
見せているんです」と。
なるほど、いまのIT化は
小学校の各児童の手許までやってきているのかと、
「時代」というものを感じざるを得なかった。
いまの人たち、わたしも含めてだが、
携帯電話がなくてはならない時代である。
むかしは、駅の伝言板などが設置されていて、
「先に行きます。〇〇」なんて白墨で描いたものだが、
あんなもの見ないひともいたろう。
いまじゃ、メールやlineでどこそこにいる、
と送れば、まちがいなく出会えることができる。
すこぶる便利である。
おいしそうな食べ物の前では、写メを撮る。
わからないことがあれば、すぐググる。
おまけに食事をしている最中も左手にスマホ、
どんぶりはテーブルの上に置き、
スマホみながら箸をうごかす。
たまにどんぶりの中身をみたりしながら。
これが老若男女の現代である。
すばらしい。
ハイデガーというひとが「時熟」という
術語を提唱したが、ゆっくりとじぶんの理解に
ちかづくタイムラグを示したものだ。
ググってわかった、という所作と
ちょうど真逆の行為である。
ただ、だれしもがいう言だが、スマホ生活の
ひとつの美点であり欠点であるのは、
「時熟」ではなく、すぐに物事が解決することにある。
スイッチのように当意即妙、答えがで、
いっしゅんで安心する。
が、いっしゅんの安心はじぶんの脳内にとどまらず、
川のながれのように消えてゆく。
つまり、スマホ人間は、じぶんの脳みそを
手の中に納まるスマートフォンに置いているのである。
知識はじぶんのなかに内面化せずに、
スマートフォンにゆだねているのである。
むかしなら、そういう人間を「ばか」と呼んで
よかったのだが、いまはその「ばか」を
この装置が再生産していることにほかならない。
そんな若者が大学入試でよい成績を
取ることができるのだろうか。
わたしは、地位教育連絡協議会に出席しながら、
校長先生の得意げなご様子をみながら
そんなことをかんがえていた。
で、ご意見ありますか、とわたしに順番が
まわってきたので、こう申し上げた。
「すばらしい教育です。いまは、すべての児童が
そういう、いまにふさわしいアイテムを持って
生活しているのですね。
でも、もし、アイパットがないとき、
美しい花を見て、おばあさんから、
どんな花だったの? と訊かれたとき、
どう表現すればいいんでしょうか。
たしかに、アイパットはすばらしいのですが、
それと同時に、どう表現するかという
表現能力ものばせないものでしょうか」
と。
このあと、会議はなんとなくしずかになってしまった。