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幸福論

話は長くなるが、幸福論として、

平和主義ののんびりとした社会は、

ことごとく不幸を生むという事情を証明しよう。

それには、日本における、「建前」と「本音」の二項対立や

「社会」と「世の中」という二項対立など、

複雑な要素がからんで説明を困難にしているのだが。

 

「個人」という語彙はインディビジュアルの訳語であり、

それは中国語にもやまとことばにもなかった造語である。

だから、おのず個人という概念が近代化・

欧化した明治という時代より以前にはまったく存在していなかった。

 

「社会」という語彙にしても中国語にはあったが、

これもそのまんま日本にやってきたわけではなく、

ソサイエティの訳語として、定着した。

だから、社会ということばも概念も、

わが国には存在しなかった。

日本人にとっての本来的な営みからすれば、

「個人」や「社会」は、近代資本主義とともに

導入されたオプションであり、

先天的、自然発生的に、芽生えたものではなかったことは

周知の事情である。

 

 では、わが国にはいかなる価値観が

あったのかと言えば、

それが、「世間」であり、「世の人」であった。

 

 渡る世間は鬼ばかり、

というエンエン続く牛のよだれのようなドラマがあるが

、渡るのは世間であって、社会ではないのだ。

 

 だいたい個人という、アイデンティティを

含有したものの考え方が皆無だった日本人は、

個というものの見方が苦手だ、というよりできない。

たとえて言うなら、個というのは点であり、

点と点を結んで線を作る。線はどこまでも延びることが

可能だから、

つまりは社会という概念は、はてしない線なのである。

 

 それに対して、「個人」にかわる語が

「世の人」であり、「世の人」で構成される

「世間」に、点(つまり「個」)という意識はなく、

線を引くことのできない世界があるから、

こちらは言ってみれば、面なのであって、

われわれは、面の世界に生きているのである。

そういうところに生きているからこそ、

みんなといっしょ、という国民性になってあらわれる。

 

 ナナコ髪切ったのか、きのうそんなことを娘に言ったら、

切ってないよ。今日みんなにそう言われた。

と、言うんで、

ふーん、みんな言ってたのか。みんなって、

電車に乗っている隣の人とかもそう言ってたのか、

など、ついつい言ってしまったら、

中学生の娘は、はぁ、とか言ってひどくひとを

侮蔑するような顔でこっちを見ていた。

 おれが悪いのかなあ。

 

ともかく、みんなといっしょ、

というものの見方は、別の視点からすると、

一人ひとりの資質を重視しないということにもなる。

これはおそらく農耕民族の出身であるという事情と

ふかく関わりをもつはずなのだが、

ここでは詳説しないが、その証拠にブランド志向が

根強いことを例に以前、論じたことがある。

一人ひとりを重視しないくせに、

外からの輸入された概念が一人歩きをするものだから、

脳の中は、ことごとくあとから命令された論理で埋め尽くされ、

遺伝子に組み込まれていない倫理が幅を利かせる。

プライバシーの侵害だとか、セクハラだとか、

あたりを見回せば、カタカナ語ばかりじゃないか。

いいではないか、早苗殿、

なりませぬ、なりませぬ。

 

代官、帯をぐいっと引っ張ると

小柄な早苗殿が畳をぐるぐるまわって

白や赤の襦袢の端から襦袢よりも

白いふくらはぎが見える、

なんていう光景が日本の情緒だったんじゃないか。

なにが、セクハラだ。よくわかりもしないくせに。

 

 和魂洋才、これによってわれわれには、

本音と建て前という二極がうまれてしまったのだ。

本音では、いいではないか早苗殿、

と思いながら、建前では、セクハラだあ、

と口角泡をとばして激昂する。無理すんなよ。

 

ところで、「社会」という概念について話をすれば、

その構成のしかたには二系統ある。

それが、「資格」の社会と、「場」の社会である。

 

「資格」とは、高校二年生とか、

カメラマンとか、運転手とか、であり、「

場」とは、麻布高校とか、朝日新聞社とか、

ふたえ交通とかである。われわれは、

この両者をごくしぜんに持ち合わせて、

器用に使い分け(使い分けというのは

日本人の特質なのだけれど)しながら生活している。

 

じゃ、どちらに重きを置いているかと言えば、

たとえば、自己紹介をするときを考えればよいわけで、

わたしは、タクシーの運転手です、

と紹介するより、○×会社の者です、

と言うはずだ。ということは、

われわれは「場」の社会のほうに身をゆだねているのである。

これは、前述した、面の世の中と緊密に関連する

事情だとおもうのだけれど、

それは、それとして、「場」の社会を維持してゆくためには、

必然的に他の場との隔離に迫られる。

他の場との隔離とは、

排他的な思考にならざるを得ない。

だから、よそ者意識とか、

他民族とかにひどくわれわれは敏感だ。

方言なども、他民族との区別のために

発達したと言われている。若者言語も方言だ、

という説がいまでは一般となっているが、

チョー○×といった、どうしても受け入れられないあの言葉遣いは、

若者社会が排他的にする防衛手段、

あるいは区別しようとする精神的活動だと見てよい。

 

つまり、場の社会に重点をおくわれわれの社会では、

その場を守るためにせっせと柵を作ろうとしてきたのだ。

そして、柵を作り、場を確保しつつなわばり意識を

増幅させてきた。そうやって、

場の社会は安定を保ってきた。

が、場が安穏、平和になる、

つまり他からの刺激がうすれてくると,

じつはあらたな不安がつのる。

なぜなら、排他的意識は他からの刺激によって

安定していたからである。

にんげんはこの不安から逃れるために、

こんどは場の中の内側に、

仮想の柵を作ろうとする。

仮りの柵は、おのず、内側に構築されるから、

面としての場の社会はしぜん比例的に

輪郭を狭められる。そして、

面積を縮小しながら、その社会は、

仮想の柵を発揮して、ここが、

にんげんの最も致命的に弱いとこなのだが、

つまり、おなじ場にいる構成員の中から、

排除してもよい資質の者、

ちょっとキズのある者を、

無理をしてでも探しはじめるという精神的な活動が

活発化される。それはとりもなおさず、

癪の種を見つけて生きてゆくようなものだけれど、

そういう資格を得た、嫌われ者は、

それこそダカツのごとく嫌われ、

ことあるたびに悪口雑言の恰好の対象となり、

ウイッチのごとく末代まで呪われる。

これが、いじめのメカニズムである。

簡単に言えば、にんげんは、

暇になると「のけもん」を作る、ということなのだ。

 

だから、冒頭でも述べたとおり、

幸せになるためには、

のんびりとしていてはいけないのである。