「おもて歌」とは代表歌のことである。
小池光氏の「日の丸はお子様ランチの旗なれば」であるとか、
香川進氏の
「花もてる夏樹の上をああ『時』がじいんじいんと過ぎてゆくなり」とか、
額田王の「茜さす紫野ゆき標野ゆき」などである。
鴨長明の『無名抄』には、歌の師である源俊恵が、
五条三位入道藤原俊成に
「御詠の中には、いづれをかすぐれたりとおぼす」と、
俊恵が俊成に自選の「おもて歌」をたずねるくだりがある。
俊成は、いうまでもなく藤原定家の父であり、
千載集の編者。俊恵は、父に金葉集の選者、
源俊頼をもつ。俊成は俊頼を私淑していたという事情もあって、
その子の俊恵の問いにこころやすく受け答えたと見える。
「夕されば野辺の秋風身にしみてうづら鳴くなり深草の里
これをなん、身にとりてはおもて歌と思ひ給ふる」と、
俊成は答える。
ただし、俊恵にとって、この歌はすこぶる不満で、
弟子の長明にこっそり語るのだ。
「かの歌は『身にしみて』といふ腰の句のいみじう
無念におぼゆるなり。これほどになりぬる歌は、
景色を言ひ流して、ただそらに身にしみけんかしと
思はせたるこそ、心にくくも優にも侍れ」と。
つまり、心情語たる「身にしみて」は語らずに、
景色を詠むことでその趣を言外に汲み取らせよ、
という俊恵の歌の姿勢がじゅうぶん見てとれるのだ。
「うれしい」「悲しい」などの心情語は
よほどうまくゆかないと現代短歌においても、
まず、やり玉にあげられるところ、いまもむかしも変わらない。
俊恵が、「面影に花の姿を先立てて幾重越え来ぬ峰の白雲」
という有名な俊成の歌を持ち出して掲出歌と比べてみたのだが、
やはり平安後期の大歌人は、
「なほみづからは、先の歌に言ひ比ぶべからず」と
かたくなにこの歌にこだわるのである。
そのへんの事情として、じつは「夕されば」の歌には、
『伊勢物語』の百二十三段、男が女と別れようとしたときの
「深草にすみける女」の歌がおもかげにあったかもしれないのだ。
・野とならばうづらとなりて鳴きをらむ狩にだにやは君は来ざらむ
人も通わない野となったなら、
わたしは鶉となって泣きましょう。
狩りに(かりそめに)だけでもあなたはいらっしゃらないでしょうか、
いいえ、いらっしゃるわね。
この歌が本歌としてあるなら、
「秋風」は「飽き」の風であり、
「うづら」に女のおもかげも現れる。
さらに「身にしみて」は「うづら」
あるいは「深草にすみける女」の気持ちとなるのであろう。
こういう古歌のイメージをオーバーラップさせて
重層性をもたせる歌の行き方、
つまり本歌取りは、すでに新古今集の境地、
幽玄の世界そのものであり、
定家が引継ぐところの有心の急所だったのである。
俊恵が、『伊勢物語』のこのくだりに気付いていたかどうか、
それはいまとなってはわからないが、
俊恵の批評をうのみにできない面もあるだろう。
ともかく、歌人なら、だ
れしも「おもて歌」のひとつでも残したいものである。