お化けを見たことはありますか。
『シックスセンス』という映画はおもしろかった。
幽霊がみえてしまう少年という特異な状況を土台とし、
ラストシーンには、どさりと落ちる軒の残雪、
そんな感じでわれわれを驚かせる。
わたしはあの仕掛けにすっかり舌を巻いた。
入試問題の『雨月物語』を見ていたら、
問題を解くよりもまず内容に驚いてしまった。
『シックスセンス』におとらず怖かった。
正太郎という男が愛人の墓参りに出かけてゆくと、
その隣の新しい墓に見知らぬ女が墓参に来ている。
なにげなく声をかけてみる。
なんでも頼りにしていた旦那が亡くなり、
その女主人は病の床に伏しているそうで、
その女主人に代わって弔いに来ていると女は言う。
正太郎は、それは気の毒、家はどちらか、
と問うと、このすぐそばです、と答えるものだから、
では、わたしがその女主人をお慰めいたそう、
とそのまま、女に連れられて、その家を訪れる。
しばらく待っていると、女主人が現れた。
見ると、青ざめやせ細った正太郎の妻が出てきたのだ。
これを見て、正太郎、あまりの衝撃にその場で失神する、
という内容。
「吉備津の釜」のくだりだ。
見知らぬ女の訪れていた墓というのは、
これから入るだろう正太郎の墓だったのかもしれない。
そこまでは『雨月』では語っていないが、
わたしは、読み終えるや、背筋につめたいものが走った。
こちらは現代のこと、献身的に看病していた
義姉が玄関に立っていて、なんだかわからないがしきりに
礼を言っていた。あとから知ったのだが、
ちょうどその時間に義姉は病院で亡くなっていた、
という実話をとある奥方から聞いたが、
その方はひどく霊感が強く、なんでも、
風呂に入っていると、誰かが湯船から出る音がするという。
そんな経験しょっちゅうらしい。おんなじ体験がしたいなら、
その奥さんといっしょに風呂に入らなければならない。
ま、こんな経験はまれであるが、みんなで怖い話をしていると、
背中に悪寒がはしるのなんか、
ちょっとした霊能力だし、
虫の知らせ、というものがある。
だれにでも経験できる軽い霊能力のことで、
この程度ならいくらでもある。
つまり、ひょっとすると、われわれ老若男女、
すべてのひとは超常現象や霊を見ることが
できるんじゃないか、わたしはそうおもう。
だが、そんなにひんぱんに霊や不可解なものを見ていたら、
どれが生身の人間か、あるいは霊魂なのか、
あるいは現実か夢か、すこぶる混乱するので、
わたしたちの脳神経がある種のバリアをはって、
その情報をクローズにしているんではないか。
つまり情報の減量である。情報の減量とは、
オルダス・ハックスリーの『知覚の扉』という
ドラッグ体験を扱った本の中にある。
つまり、脳に届く回路を狭めることで神経系を保護し、
外界との均衡を取ろうとする、ある種の防衛本能である。
あまりにもたくさんの情報をいっぺんに受け取ると
混乱におちいるから、一種のスクリーニングを
おこなって情報の選択をするのである。
だいいち教室に、死んだ子と生きている子が座っていたら、
出席取るときに困るじゃないか。
たぶん教室には多数の冥界をさまよっている霊が
うようよいて、けなげな霊魂は挙手なんかしているかもしれない。
いちいち、そんなのを相手にしていたら、
精神衰弱になるに決まっている。
だから、われわれは霊を見ることが容易なくせに、
ちゃんと見えなくなるように回路をぐっと狭めているに違いないのだ。
が、その回路が、たとえばてかてか輝く鏡とか、
たとえばかげろうの立つ夕陽の中とか、
たとえば草木も眠っている真夜中とか、
遮断されなくてはならないはずの情報が、
特殊な状況下の中でふいに起動してしまうのではないか。
それをわれわれは単に霊体験と呼んでいるのではないか。
とくに、情報が氾濫しているさいきんの世の中では、
なるべくワイザツさを避けるためにわれわれは、
情報の入り口を狭めようと意識的にしている面がある。
メールなどはその最たるもので、
恋人よりもメル友の方が本音が言える、
なんていうこともあるらしい。
ハンドルネームだけで細くつながっている
針金くらいの情報の入り口に、むしろ安心感を持ち、
心の安定を覚えるのだ。
携帯電話は、もっとも身近な他者であり、
そもそも他者からの情報、
刺激によってニンゲンはみずからを
確認するという仕組みをもっている。
携帯電話を持っていないと不安になるのは
そのへんに由来している。携帯電話の呪縛、
そう言ってよい。煙草を吸っているひとは、
出がけに胸をさわったりポケットを叩いたりして、
煙草とライターの所在を確かめてから外出する。
これは、たばこの呪縛である。
どこへ行くのにもウォークマンは欠かせない。
海外研修でのアメリカ大陸、あの青空の下、
いまどきの高校生は浜崎あゆみや平井賢を聴いている。
外界を遮断させて、たったひとつの音源ソースに
よりかかっているのだ。呪縛の極みと言ってよい。
しかしながら、このように情報を減量させて
、はじめて心を安定させながら、
みずからを確かめてゆくと、おのずみずからが、
社会の中から孤立の方向にむかってゆくのも事実だ。
社会の中にいながら孤立無援の状態になることを
大衆離群索と言うが、世の中がどうであろうと、
おれはおれだからいいのさ、なんていう開き直ったような
ミーズムの口癖も、こんなところに発端がある。
そうして、けっきょくひきこもりやら恣意的な
行動やらが世の中を覆いつくしてしまったようだ。
こういう頭を抱えたくなる状況を、
われわれは「アイデンティティの危機」と呼んでいる。
この危機を解消するために、
つまり、健全なアイデンティティの充足を
とりもどすのには、だから少し情報の弁を
開き加減にしなくてはならないのである。
しかし、もちろんお化けを見ない程度に、である。