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オノマトペの功罪

ことばとはむつかしいものである。

いまさら、こんなことを言うのもなんなのだが、

ついつい、歌集などを読んでしまうと、

そんなあたりまえのところにたどり着いてしまうのだ。

 

表現者は、こころに秘めたなにものかを

表現しようと試みているのだが、

表現はあくまで他者に向けてであって

、歌人や詩人は、絵を描くわけでも、

唄を歌うわけでもないから、

表現するのにはどうしてもことば、文字を使うしかない。

 

おいしいですね、言葉では表せません

、という評価も、じつは「言葉では表せない」

ということばでの評価なのである。

ま、これは、「無印良品」という「ブランド」が

存在するのとおんなじくらいのアイロニカルな

ひびきを感じるのは否めないが。

 

 こころというものは既製品ではなく、

各人、各人がそれぞれ作用機能させている、

いわゆるオートクチュールなのであり、

たとえば、手のひらにのせた蛍のささやかなあかりを見て、

そのあたたかなほのかな生き物のかそけさを

なんと表現すればよいのか、

表現者はそのひかるものをこころで感じ、

そのこころの目で見たものが、

ゆるぎないなにものかになるとき、

つまり、自分自身の認識として確定されたとき、

はじめてことばという媒体に、

みずからの認識をゆだねるのである。

だから、あんまり簡単に「はかなくて」とか

「美しく」などと文字にのせてしまえば、

認識が早い、といったそしりをうけるのである。

 

 そもそもニンゲンという生き物は、

じぶんのからだはみんなとはちょっとずつ

違うのだけれど、吊るしの既製服を着て、

むしろからだを服に合わせようとしてしまう。

こころとことばの関係もこれとおんなじで、

既製のことばにこころを合わせようとしてしまうのである。

そういうことをくり返していると、

こんどは、平板とか、没個性とか、のそしりをうける。

 

・ひとり寝の旅の朝(あした)を吹く風よふわっとわたしを抱いてくれぬか

 

知人の松井和子さんの歌だ。

彼女の処女出版『桃色のてのひら』所収歌である。

 

・たとへば君ガサッと落ち葉をすくふやうにわたしをさらってゐってはくれぬか

 

河野裕子氏の歌だ。

河野裕子は日本を代表する歌人のひとりで、

「たとへば」の歌は氏の代表歌ともいうべき歌だから、

この歌を知らない歌人はいない、はずだ。

二つの歌を見ると、なんだかよく似てるなあ、

とおもったのはわたしだけではないとおもうが、

それはそれとして、和子さんの「ふわっと」と

河野裕子氏の「ガサッと」と、どちらもその擬音語、

オノマトペに着目すると、

河野氏の「ガサっと」には氏のこころが投影されているが、

「ふわっと」は既製品のままになっている感がある。

かんたんに言ってしまえば、だれでも使う言葉じゃんかよ、

というそしりをうけるかもしれない、ということだ。

鍋がコトコト、うさぎがぴょんぴよん、

こういうオノマトペは、こころをゆだねるのに

すこぶる便利な語なのだ。

なぜなら、それは日本人がつちかった音声であり、

すでに感情ができあがっているからである。

鍋の中身がひとつずつたがいに小刻みに

ふるえるようにしだいに煮えてきたのをみて、

ぐらぐら、ことこと、これを使えば楽なのに、

と、なんど表現者はおもったことだろう。

急坂でらくなギアに落としてしまうような

誘惑があるのである。

が、オノマトペという麻薬のようなプレタポルテは、

個を埋没させてしまう危険をはらんでいる。

だから、オノマトペに負担をかけるのは、

よほどの強い個性と力量がないと無理なのだ。

ましてや、オノマトペによりかかろうとするのは論外である。

 

・鶏ねむる村の東西南北にぼわーんぼわーんと桃の花見ゆ

 

作者の小中英之さんの、

この「ぼわーん」は発見だし、

桃の花の雰囲気をいっきにかもしだす名作となっている。

 

 ・日だまりの猫はおもむろに背伸びして春をぐんぐん引っ張っている 

 (『桃色のてのひら』)

 

こちらも、和子さんの歌だが、

この「ぐんぐん」は背伸びのしぐさと

あいまってなかなかの秀逸となっている。

ことば遣いはむつかしい。

なおさらオノマトペはむつかしい。

だから、わたしなどは臆病なので、

安直にオノマトペを使わずにいる。

いや、テポドンのような最終兵器として、

使わないようにしている。

 

 こころとことばにはズレが生じる。

このズレのいかんともしがたさを覚えているのが、

たとえば谷川俊太郎だったり斎藤茂吉だったりするのだ。

そして、それを言語の悲劇とみるか、

文芸の挑戦とみるかは、その人となりの差ということになるのだが、

ともかくも、作品は作り続けられてゆき、

そのエンエンと続く作業によって、

わがかけがえのないこころを既製品の

ことばに託すのだから、最後の最後まで、

これでいいのか、これでいいのか、

とことばと対峙して、そして手放す。

手放したこころはことばとなって一人歩きをする。

一人歩きをしたことばは作品となってもういちど、

じぶんに戻ってくる。

そのとき、一人歩きしたひとつの作品は、

もうひとりのじぶんとしてそこに存在する。

その存在を見つめ直し、

じぶんという存在の意義をまた考えたりする。

 

こういうくり返しを日々試行している人々を、

われわれは歌人と呼んだり、詩人と呼だりするのである。