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戦争論 その2

 ところで「快楽」と「享楽」はちがいます。

このちがいはフロイト派のジャック・ラカンのものですが、

ラカンに言わせると「快楽」は法の内側、

コトバで規定可能な相対的な楽しみのことで、

「享楽」は法の外側、コトバでは説明できない

絶対的な意味をもつ体験の楽しさのことです。

ピンポンダッシュなどは享楽です。

砂浜の花火でシュポシュポ打ち上げる。

「危ないから下がって、下がって」これは快楽です。

が、花火をひとにむけて、戦争みたいに打ちまくる、これが享楽です。

 

 戦争といえば、戦争論はクラウゼヴィツが有名です。

世界は、二回の世界大戦を経験していますが、

大戦とよばれるのにはどのような条件が必要だったのでしょう。

クラウゼヴィッツは語ります。

二十世紀には二つの「世界戦争」があったけれど、

それだけが「大戦」とよばれています。

それ以外の戦争は「民族紛争」や「地域紛争」や

「部族間抗争」とよばれ、カテゴリー的には一ランク下です。

戦争の規模を、そこに「動員」された兵隊数、

投下された爆薬、破壊された都市の「面積」、

「死傷者」数といった数的な基準にとれば、

第二次世界大戦以後になされた「地域紛争」のいくつかは、

両次の世界大戦を「規模」のうえでは超えています。

つまり、戦争には、その数量的「規模」とは別の仕方で、

それが「世界的」であるか、「局地的」であるかを

区別する基準があるとクラウゼヴィッツは語ります。

その急所は、戦争の本性を露出すること、

戦争の絶対的形態にどれだけ近づくか

ということにほかなりません。

戦争が「政治に内属」しているばあい、

戦争はまだその「本性」を露出していません。

戦争が「政治」のコントロールを離れたとき、

つまり国益の維持・国威の発揚・政権の延命などの

「合理的」な目的達成の「手段」としてではなく、

「戦争のための戦争」として戦われるとき、

これを「戦争の本性を発揮し、その絶対的形態に近づいた」

と言うのです。