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戦争論 その3

たとえば、王朝戦争だと、王侯や皇帝、大貴族が

それぞれの利権のために戦う戦争です。

軍隊の兵士は徴募士官にリクルートされた傭兵です。

指揮は「軍事的訓練」のない

宮廷政治家にゆだねられていました。

つまり、目的達成のための戦争を仕切っていた

「戦争主体」が存在したということです。

 

戦争は、裏取引や妥協のカードがめまぐるしく

飛び交う「政治ゲーム」の一ファクターであり、

「外交交渉」の過激な形態というにすぎなかったのです。

それからつぎに「ナポレオン戦争」です。

以前は「戦争は政治に内在する」という

中世的な常識な発想でした。

しかし、ナポレオンの率いた軍隊は、

歴史上はじめての「国民の軍隊」でありました。

 

それまでの兵士は「誰かべつの人」の利害のために

戦っていたから、危険な仕事に対する対価を要求しましたが、

ナポレオンの軍隊はそうではありません。

かれらはフランス革命の高邁な理念を護持し、

それを広くヨーロッパ全土に宣布すべく、

じぶんの理想のために、じぶんの「責任」におい

て戦ったのです。つまり、かつての王侯のように、

戦争をはじめるにせよ、やめるにせよ、

その意思によって戦争をコントロールできる

「単一」の「戦争主体」がいなくなったという事情です。

 では、クラウゼヴィッツのいう「戦争主体」とはなんでしょうか。

 ひとつめが「将帥とその軍」という主体性。

確実性と「偶然性」の入り混じる局面でつねに

適切な判断をくだすギャンブラーの

「勇気と才能」が求められる戦いです。

つぎが「政府」です。戦争は異なる手段をもってする

政治の継続であるという前提を貫徹する、

打算的「知性」が求められます。

そして最後が「国民」です。

国民が戦争主体になると、それは「憎悪と敵意」の供給なのです。

この「戦争機械」を車の運転にたとえると、

政府は「行き先」を決め、将軍たちは「運転」する。

そして、国民の任務は「憎悪と敵意」をエネルギー源として

「戦争機械」に供給するという図式になります。

国民国家の成立とは、この戦争「主体」の

構成要素の間の勢力均衡からいえば、

「軍略」と「打算」というふたつの知的ファクターに対する

「憎悪と敵意」という情念ファクターに

優越するという事態を意味しているのです。

それゆえ、「国民」が戦争「主体」の支配的な

ファクターになったときに、

戦争はその「絶対的形態」に到達することになるのです。

いわゆる「世界大戦」です。

これが、クラウゼヴィッツの戦争論の概要でした。