コトバについて話します。
コトバとは記号です。
記号とは、我われの世界に存在する
個々のモノを区別、区分するための装置です。
これを「世界分節の差異化」とよびます。
分節とは、ものの見方そのもののことですね。
ある人は「丸だよ」といい、
ある人は「いや、長方形だよ」といいます。
おんなじものを見ていても分節の仕方で
ちがってみえるわけです。
答えは、茶筒です。上から見れば円形ですが、横から見れば四角形です。
アフリカのある民族は、
飼っている牛の模様にすべて名前をつけているそうです。
そうしないと、じぶんの家の牛かどうかがわからなくなるからです。
これが「分節の差異化」です。
この世界分節の差異化が記号の本質で、
そこに「コード」という概念をいれると、
記号の読み方が変わるわけです。
「十」という記号に、
漢字のコードを代入すれば「じゅう」になり、
算数のコードなら「たす」、
数学なら「プラス」、宗教的コードなら、
さしあたり「十字架」でしょうか。
さて、そのコトバですが、
人の暮らしに欠かせないこの道具は、
じつはひじょうにやっかいで、
そのひとつとして、じぶんのおもったことを
過不足なく語ることができない、
という性格をもっています。
言い過ぎるか、言い足りないか、
のどちらかになるというのです。
これをジャック・ラカンという
フロイト派の学者は「根源的疎外」とよびました。
ラカンというひとは、
フェルディナン・ド・ソシュールの
影響をつよく受けたひとで、
十九世紀、ジュネーブ大学の言語学教室の教授、
ソシュールの論文を電車のなかで読んで刺戟をうけました。
そのソシュールですが、やはり、コトバのあいまい性について語ります。
コトバとは、かならず対になって存在するといいます。
「美しい」という語は「醜くい」という語がなくては存在しません。
「利口」は「バカ」がないとその語はありえない。
すべてのひとが、ガッキーとおんなじ顔だったら、
ひょっとすると「かわいい」という語はなかったかもしれません。
ソシュールはそのあいまい性について、
もうすこしくわしく考えをすすめ、
つまりは、コトバ(シーニュ)には、記号表現と記号内容があると語りました。
つづく