大学時代のゼミの仲間に花木という男がいた。
仲間であっても、けして友達ではない。
高校時代、野球部に所属していたらしいから
さぞかしスポーツマンシップ、すがすがしい
男かとおもったら、意外にそうでもなかった。
背丈はそんなに高くないし、
佐藤 蛾次郎と西田敏行を
足して二で割ったような面持ちだった。
外見のはなしはよろしいよね。
わたしどものゼミは、大学でも
ひどくきびしいゼミとして名高く、
資料集めから発表までになんども
先輩の前でプレゼンがおこなわれ、
そしてなんどもやり直しがあった。
だが、わたしはそういう
しごきがきっといつかはわが身になるのだろうと
あえて、このゼミを選んだのだ。
高校時代にあまりにさぼっていた反動
だったかもしれない。
そして、念願のこのゼミにはいり、
わたしは、学級委員、生徒会長、「長」となのつくものは、
人生でいちども経験がないのに、
「ゼミ長」というもの拝命した。
もちろん、立候補したのだけれども。
ゼミ員は10数名、ささやかなゼミである。
一週間に一度のわりあいで、
教授をふくめた、ゼミの会議というものがあった。
なにを決めねばならないのか、
いまではすっかり忘れているが、
ほとんどのゼミ員が意見を言わないので、
会議は十数分でいつも終了した。
が、その会議がおわるとゼミ室を出てすぐ、
花木はわたしをつかまえて、
「おい、あの時は、こうすればよかったんじゃないか」
と、小声でわたしを諭すのだ。
それも、まず、毎回、そういう風に、
「あれは、こうすればいいんじゃないか」
と、わたしに言うのだ。
だから、わたしは
「じゃ、あのときに、そういえばいいじゃなぃか。
なんでその時に言わないんだよ」
と、そのたび、いつもそう言うのだが、
それにはかれはいちども答えなかった。
偏見になるかもしれないが、
世の母親はよく子に言う。
世の妻はよく夫に言う。
「だから、あのとき、ああすればよかったのよ」と。
この言い方は、すこぶる正しい。
なぜなら、いまのやり方になにか不具合があるから、
「あのとき」「ああしたほうが」よかったのかも
しれないからだ。
結果が出てしまったあとに、
過去にもどってサジェスチョンをすることは
結果的にはまちがいではない。
が、それは正しいかもしれないが、間違っている。
だって、取り返しがつかないじゃいないか。
だれだって、ああ失敗したとおもっているとき、
その失敗を羅列指摘されても、「その通り」と言うほかない。
それより、もうすんでしまったことだから、
明日、こうしたほうがいいよ、
来年は、ああしたほうがいいよ、
と、未来志向の建設的な意見を言ってもらえれば、
わたしは、その人とは無二の親友になる自信がある。
あのときああすればよかった、
と口角泡をとばすように言うやつは、
それは「呪い」でしかない。
「呪い」というのは、返答不能な状態にさせられたときを
そう言うのである。
「わたしのことどうおもってるの」
なんていうのも「呪い」である。
答えようがないじゃないか。
花木が、「あれは、こうするべきじゃなかったのか」と
言うこと自体が「呪い」なのだ。
じぶんのリスクはゼロにたもち、
そして、相手に「呪い」をかける、
それか花木の生き方なのだった。
卒業して、かれは北海道の教員になったらしい。
もちろん、卒業して、かれとはいちども連絡もとってないし
会う気も起きない。が、仄聞するところ、
花木は、校長になったという。
すばらしい。スポーツ好きの国語の先生である。
が、三つ子の魂百まで、きっと、
その高校の教員には、わたしがうけたような
「呪い」を酸が侵食するように
じわじわとかけながら、いまでいうハラスメントを
味わわせながら校長の椅子にすわっていたことだろう。
もうすっかり年月が経ってしまったので、
いまでは、
かれには幸せな余生をおくってもらいたいと
切におもうようになった。
じぶんの醜さを自覚しないまま、
認知的斉合性の渦のなかで
すべてが順風満帆、いい人生だったと
おもって黄泉の国に行かれることを
こころから願っている。