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ボーダレス

むかしの話である

 ドナー登録の制度があったなら、

きっとぼくらは四十六歳の夏目雅子さんに

あえたかもしれない、というAC広告機構の宣伝を耳にしていると、

傾国の美女は二十六歳で夭逝したんだなあ、

なんてしみじみと感じるとともに、

四十六歳というとおれとおんなじ年じゃないか、とあらためて気づくのだ。

そして、それと同時に、ふーん、おれは四十六まで無病息災、

夏目雅子とちがい、憎まれっ子はいままで死なないで、

生きていてすみませんね、

そんなひねくれた気持ちにもなるのである。

なんだかすっきりしないコマーシャルである。

 

 ことしも年が明けて、またひとつ歳をとる。

長女もいよいよ高校がおわる。よくここまで

子供たちも成長したものだ、とこちらもしみじみとおもうのと同時に、

そういえば、長女の名義で登録してあった携帯の

学割もそろそろ次女に名義変更しなくてはとおもっている。

この学割制度でずいぶんわたしは助かったのだ。

 

 元日はひさしぶりに家族がそろって遅い朝食をとった。

眠たい目の娘ふたりを起こして、まずは、

家長のわたしが新年のあいさつをし、

おごそかとはいえないまでもしずかにおせち料理をつまんだ。

なんだかちょっとしらけたような、

わざとらしい雰囲気が食卓にただよい、居心地はよくない。

と、上の娘が唐突に切り出した。

「レコタイどうした?」

 れこたい? わたしはフリーズした。

「れこたい」といえば、「れこ隊」しか頭に浮かばない。

どんな隊かわからないが、とにかく行進している。 

で、わたしが「なんだ、れこたいって?」と訊くと、

みんなさっきよりしらけたような顔になり、

しーん、なんにも答えない。

わたしだけがきょろきょろしたような気分になる。

意地悪きわまりないね。

と、ちょっとは気の利く下の娘が、上の娘に耳打ちした。

「お父さんに、省略しちゃだめ」

 あ、それで氷解。省略なんだ。レコタイ、

ああ、レコード大賞か。さすがの省略音痴にもそのくらいの想像はきく。

 どうでもいいけど、このあいだバイトの女子大生を

家まで送っていたところ、

その子が、「あ、ここにもカメマンある」と小さく叫んだ。

かめまん? なんだ、それ。あ、わかったぞ。亀屋萬年堂だ。

おまえ、亀屋萬年堂でなんか買うんかい、

しょっちゅう利用してんかい、なんで省略するんじゃい。

と、けっこうな声で怒鳴ってやったら、

わたしが省略の苦手なことをよく知っているものだから、

じぶんでじぶんの言ったことがおかしかったのだろう、

けらけらひとりで笑い出しやがる。よぶんな省略はよせ、ばか。

そういえば、メールに教え子から「あけおめ」なんていうのも

届いていた。正月は省略語が氾濫するものだ。

おもえば、わたしの学生時代はショートホープをショッポ、

セブンスターをブンスタ、あるいはブンタとか、

煙草くらいしか省略はしなかったのに。

 ところで、レコード大賞はだれが取ったのだろう。

むかしは、ちあきなおみの「喝采」、

ジュディオングの「魅せられて」、など、年末のレコード大賞には、

だれが受賞するのか、いま以上にわれわれの関心もあったし、

いま以上にもっと年末らしい趣があったようにおもうのだ。

それは、元旦を迎えるひとつのプロローグであり、

一年のしめくくりと新年への架け橋という、

なんだか、ちょっとそわそわとした落ち着かなさと、

感慨めいたものが底流していたけれど、

さいきんはこのへんの時間感覚がボーダレスになってきて、

たとえ、お盆のころにこの授賞式があっても

さほど違和感がないんじゃんないか、

とおもってしまう。で、けっきょく、

ことしは誰の受賞なのか、わたしは知らない。

どうもウワサでは、浜崎あゆみが受賞したとか。

スマップが辞退したとか。

それも、風のうわさでホントのところは不明である。

なんでも、スマップの辞退の理由が、

歌詞にあったらしく、ナンバーワンにならなくてもいい、

それぞれがオンリーワン、とかいうもので、

ナンバーワンにならなくていいなら、

レコード大賞といういちばんの賞を受賞するのは

すこぶる矛盾である、ということらしいのだ。

スマップ関係者もあとからそのへんの事情に気づいたのか、

ほんとに賞がほしかったのならいまごろは地団駄を

踏んでいるに違いない。もし、レコード大賞という

栄えある賞をとりにゆくのなら、

さいしょっから歌詞をオンリーワンになんかならなくていい、

ぼくらは世界のナンバーワンだ、とかいう曲にしておけば

いまごろはスマップに大賞が転がり込んできていたはずで、

原型をとどめない百二十パーセント整形女に

賞をよこどりされずにもすんだのだ。

これもよぶんなことだけど、加納姉妹とかあゆとか、

時間が経つとどんどん変形してとりかえしのつかないことに

なるのじゃないかしらん、と人ごとながら心配になる。

化膿姉妹にならないよう。なにしろ、シリコンでつくられた

鼻や胸はブラックライトでうっすらと光るそうだから、

ディズニーランドのピーターパンの乗り物になど

整形美女は乗ってはいけないのである。

話がとんでしまったが、ま、レコード大賞も

いまじゃそれほど実体のない、

価値のないものと化してしまったと言うことか。

 フセインがあっという間に捕まって、

自衛隊が威勢良くイラクに人道支援という名目で出かけて、

その反動で、東京などの大都市にテロがあるかもしれない、

という風が吹けば桶屋がもうかる式の図が、

世の中の流れにおいては、江戸八百八町から

全世界的な規模に拡大されていることに驚かされるのである。

こういう図式をボーダレスと呼べば、

世界がボーダレスに、かつ、国民全体の風潮がレコード大賞に

象徴されるようにボーダレスになっている現在、

それはよくいえばグローバルに、国内的には一年が

均一化されてきたということになるのだが、

悪くいえば、すべてが平板になった、ということなのだ。

もっといえば、年中行事が形骸化され、

儀式というアニミズムの厳かさが希薄になっているということに

ほかならない。

 むかし「時代屋の女房」という映画があったが、

夏目雅子の魅力がよくでていて、

日本の風情もよく醸し出されていた。

まだ二十年くらい前の映画なのに、

すでにノスタルジックなおもいを抱いてしまう。

この二十年間でこの国はどんな道を歩いたのか。

曲がった道でも歩いている人にはまっすぐに見える、

というが、はたして日本街道はまっすぐだったのか。

年始になんだかはなしが重くなってしまったが、

いま、ほんとに夏目雅子が生きていればどういう

映画のヒロインを演じたのだろうか。