用務の小池文子さんが退職されてしばらく経ちます。
小池さんは、学校の用務員室に寝泊まりされていましたから、
生徒や教職員のため、いちばん先に
学校の出入り口を開けていらっしゃいました。
まだ、職員室が実習館にあり、宿直があったころです。
よく小池さんは、宿直で泊まっていらした
先生に味噌汁をさしあげていました。
底冷えのする職員室に小池さんの味噌汁の
かおりがほんのりと漂い、
いただいている先生の心まで温かくなるようでした。
小池さんはとてもお話の好きな方で、
よく私にお話しくださいました。
とくに、彼女のふるさとのお話は感慨深いものがありました。
小池さんのふるさとは茨城県、
久慈川という一級河川の流れている
閑静な地でお生まれになりました。
久慈川には、鮎取りの名人がいまして、
それは文字通り鮎取りなのであって、
鮎を針で引っかけるのでも、
投網で捕獲するのでもありません。
手づかみでとるのです。手づかみといっても、
ただばしゃばしゃとがむしゃらに
鮎をつかむのではありません。
じっと、両の手を川の流れのなかにつけておくと
鮎がするりと手のひらや足の裏に
すり寄ってくるというのです。
そのためには、名人は久慈川の川や沈んでいる
石と一体にならなければなりません。
まず、夜中、川のなかにはいること数時間、
自分のからだを川の水温といっしょにするためです。
水温までさげられた名人は手と足の裏に苔をぬり、
川にはいります。そうしてようやく名人の体は、
自然の一部と化するわけです。
鮎はまるでそこがじぶんの安住の場であるかのように
名人の手のひら、足の裏にもぐり込むのだそうです。
そこをそっとおさえて腰にくくりつけてある籠に
鮎を運びます。まるで乳飲み子をベッドから抱えるように。
だから、名人の鮎には傷ひとつないのです。
傷のない彼の鮎は、久慈川一帯の高級料亭や
旅館が高い値で購入していったといいます。
夏といっても、早朝の久慈川の水は冷たく、
ですから、家族はたき火をたいて名人の帰りを待っています。
けして楽な仕事ではないので、
ひとりいた弟子もいまではやめてしまって
この鮎取り漁は彼でおわりだそうです。
ある日のことです。いつもどおり、
名人が川にはいり、
ふところにもぐってくる鮎を待っていたところ、
名人の手に何かが触れて流れていきました。
彼は、はっと思って、それをとっさにすくい取りました。
それは、ひとりの女の子でした。
女の子が上流から流れてきたのです。
当時、久慈川は旅館が多く、
女給に年若の女の子がたくさん働いていました。
その子が洗い場で足を滑らせて流されてきたのです。
この子は、幸いにも命を取りとめ、いまもご存命だそうです。
名人が世を去って久しいのですが、彼女はお盆になりますと、
毎年、この名人の位牌に手をあわせにくるといいます。
じつは、この鮎取り名人こそ、小池文子さんのお父様でした。
小池さんの話はここでおしまいです。
この話をされたときの彼女の目には涙があふれていました。
私は最近、引っ越しをしてのんびりと
生活をしておりますが、
夕食の味噌汁のかおりが部屋に立ちこめますと、
いまも小池さんのことをふと思い出したり、
あわい思いもわいてきたりするのです。