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国語的なはなし

 源氏が平家を京都に攻め、

いよいよ本陣、宇治川に敗走というとき、

平家の取った処置は宇治大橋の板を引き剥がしたことだった。

 源氏の先陣は宇治の大橋に通りかかったとき、

その異変に気づく。馬を止めねばならないのだ。板東武者は

「橋をひいたぞ、あやまちすな。

橋をひいたぞ、あやまちすな」と制止を促す。

 

橋の板を引き剥がすことには

「橋をひく」というテクニカルタームがあるのだ。

が、ここで注目したいのは、

「橋をひく」でも「あやまちすな」でもない、

「ひいた」の「た」のだ。平家物語は鎌倉初頭の軍記物語だから、

まだ平安文法を引きずっているわけで、

本来なら「橋をひきたるぞ」あるいは音便で

「橋をひいたるぞ」とすべきところなのだ。

つまり「たり」という完了の助動詞をちゃんと

使わなくてはならない場面だった。

が、鎌倉の田舎侍は、ここで「橋をひいた」と言った。

目前の行く手にワナが仕掛けられてあるのだから、

一刻をあらそう緊急事態、緊迫した場面で、

お国言葉、つまり方言、を使ったところに、

臨場感がかもしだされているという

事情もさることながら、もっと重要なことは、この「た」に、

われわれが日常使用している、

完了の助動詞の「た」の原型をみるという事実である。

つまり、この平家のくだりは、

われわれの使う完了の助動詞「た」の初出資料として、

また、「たり」の関東方言であるという貴重な証拠ともなっているのである。

 では、「たり」という助動詞は、

鎌倉時代よりくだること八百年、

現代ではどうなっているのかといえば、

「たり」はすっかり勢力を弱め、

「行ったり、来たり」と並列助詞となって、

かすかな存在をしめしている。

おおよそ、完了の助動詞は消えゆく中に並列助詞となり、

消滅からほそぼそ身を守っているようなところがある。

「行きつ、戻りつ」などがその例である。

 話はちがってくるが、係り結び「こそ+已然形」、

「下手こそものの上手なれ」も係り結びだが、

これ以外にも「こそ+已然形」はこっそり

高度資本主義の現代でも息づいていて、

例えば「程度の差こそあれ」といった具合に、

挿入句の中にだけ姿をあらわすのだ。

 ところで「てにをは」いわゆる助詞という機能の

特色はなにかといえば、一語で文節を作れない、

つまり付属語であることはもちろん、

もっと着目しなくてはならないことは、

活用がないということである。

活用とは語尾が変化することをいうから、

活用語というと、助動詞の付属語以外、

動詞、形容詞、形容動詞とあわせ、四種類がそれにあたる。

高校生を経験したものにとって、

古文の動詞の活用と科学の周期表の丸暗記は苦痛の思い出だろう。

「け・け・く・くる・くれ・けよ」こういう動きを

二段活用と呼び、いまはない。

エ段とウ段で語尾変化するから二段という

ネーミングがつけられたことは周知のごとくだが、

たくさん覚えた活用の種類も現代ではその数が

飛躍的に減少している。たとえば、

ラ変とかナ変、二段動詞も消滅している。

それはなぜかといえば、まったくもって単純な

理由なのであるが、面倒くさいからである。

面倒というのは、舌の負担を避けるということと同義である。

日本人はとにかく舌の負担を避ける傾向が強いのだ。

スマップのリーダーなんか、ほとんど口を開けずにしゃべるから、

何を言っているのかわからない。あれも舌の負担を

避けようとするばかりの結末である。

面倒くさがりの傾向は、動詞の活用の一段化に現れる。

群馬の太田では、「来られる」を「来(き)れる」と言う。

これなんか、すでにカ変が上一段化しているものとおもわれる。

どんどん活用の種類が減っているのだ。

 結果論的に、活用語というものは消滅する、

という運命がある。が、非活用語、

つまり、名詞や助詞は不変である。二千年意味も用法もそう変化しないのだ。

「山」といえば「山」の意味は未来永劫変わらないだろう。

「て」という助詞も、額田王も清少納言も夏目漱石も林あまりも

おんなじように使っているのだ。

分子運動で例えれば、活用語は液体、非活用語は個体、といってもよいだろう。

 だから、わたしが文章読解でもっとも重要視しているのが

この助詞なのである。なにしろ用法が変わらないから、

なんの暗記もいらないのだ。

しかし、悲しいかな、とくに接続助詞「て」には

ゆゆしき運命がつきまとっている。

「て」の解釈でおおきな誤解がなされているからである。

とくに予備校界では単純接続の「て」は主語が変わりにくい、

と教えるのだ。だいたい「何々しにくい」というところからして

すこぶるあやしい。壊れにくいおもちゃですって言われたら、

いつかは壊れるんだろうと消費者はおもうだろう。

はがれにくい糊といったら誰も買わない。

ぜったいはがれない糊、というなら試す価値はありそうだ、

となるではないか。主語が変わりにくいとはなんぞや、

変わることもままあるんだろ、そうおもうではないか。

で、案の定、「て」の上下で主語がころころ変わるんだな、

これが。やっぱり、読解というものは、

ゼッタイ・・・、必ず・・・と百パーセントを求めるのが究極だし、

正しいのである。「雨降って地固まる」なんか

「て」をはさんで「雨が降る」と「地固まる」と

主語がはっきり違うじゃないか。

 主語が変わりにくいという提唱者のひとりが、

あのマドンナ古文の荻野文子なのであるが、

マドンナも人まねだけの存在なんだけれど、

ふしぎなほど予備校界を引退してもその影響力は強く、

東進ハイスクールでは通年のビデオ授業が

いちばん先に定員になるらしい。

ビデオで授業するなよ、

とおもうがね。エロ本見ながらオナニーするのと変わらないよ。

べつの視点から「て」を見る先生もいて、

「て」は単純な時間的な流れを示すと説く方もいる。ほんとかい? 

 紫の上は、美しくて、樺桜が咲き乱れているようなおもいがする。

なんてくだりが源氏物語にあるけど、美しい、

と、樺桜が咲き乱れるとは同一の時制じゃないかとおもわれる。

もっといえば、乾電池の直列みたいに前後の

順番をぎゃくにしても豆電球はつくのとおんなじ、

「て」の上下で内容を入れ替えても意味がまったく

かわらないばあいもあるのである。

じゃ、「て」はどのように理解すればいいかといえば、

「て」の上下では、テーマが同一だ、

と解せば、すべてが氷解、溜飲が下がるのである。

  百万円が当たって、みどりは飛び上がった。

  箪笥の角に小指を当て、みどりは飛び上がった。

 おんなじ「飛び上がった」でも、

百万円が当たったのと箪笥の角に足をぶつけたんじゃ、

月とすっぽん、まったく質のちがうことを

われわれはちゃんと使いわけている。

これも「て」の上下のテーマイコールが機能しているわけで、

このテーマイコールはいついかなるときも百パーセントイコールなのだ。

 じつは、テーマイコールは格助詞の「と」でも言える。

 

  「いやよ」と、みどりはふくみのある視線をこちらにむけて微笑んだ。

  「いやよ」と、みどりは悲鳴に近い声をあげて逃げるように駆けだした。

 

 おんなじ「いやよ」でも「と」の下の内容によっては、

意味がすっかり変わってしまう。引用の「と」という語の能力は、

そもそもカギでくくられる会話の意味内容というものは

ほとんど叫びそのもので、意味が限定されないのだが、

その限定されない内容と同質の抽象動詞で結びつけることで、

カギの中の内容を規定させるというものなのだ。

よくかんがえれば、あたりまえのことだけれど。

このあたりまえが、あんまり大事にされていないのが、

教育の場をふくめ、現状なのである。

だいたい、こういうあたりまえの事情は、

文法書にはなんにも書いていないので、

新人の教師などはまったく知らなかったり、

気づかなかったりするんじゃないだろうか。

 ようするに、活用語はどんどん消滅するのに対し、

非活用語は、まったく意味を変えずに存在し続けるのだから、

非活用語を理解、重要視すべきなのだ、

というのがわたしのかんがえなのである。

 とくに助詞はいまも昔も変わらないのだから、

だれの頭の中に、無意識で文法規範が構築されているのである。

ただし、頭の中の無意識をじぶんでは説明づけできないのだ。

それをブラックボックスと呼ぶのだが、

このブラックボックスを引き出し、説明しようとするのが、

国語という教科のおおきな使命なのである。

 つまり、国語の究極は、そのひとが、

持ち合わせてはいるものの化石のように眠っている

部分を揺り動かし、確認させる作業にほかならない。

それはコロンブスの卵でもあり、じぶん発見の旅でもあるのだ。

 古文の授業で、ただ訳を言って、

重要語法の板書をするだけでは、

こういった旅にはでられない。

と、とてもえらそうなことをつらつら述べてしまったが、

じつは、わたしの授業を聴いてくれる生徒はいま、

ほとんどいない。だいたいが、

プライベートライアンの最初のシーンか

タイタニックの最後のシーンのように、

みんな死んだようになっているのだ。