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ぎりぎり

 鯖の生き腐れ、ということばがあるくらい

鯖という青物は生では食べられないのに、

こと、関鯖という大分豊後水道で捕れたやつは、

味が深く、おまけに生で食せて、すこぶる美味である。

鯖は、鯛やひらめとくらべひどく下品な魚として、

兵隊さんの位も低く思われがちなのだが、

あの関鯖は、大将さんくらい上質なのだ。

 わたしも寿司屋にゆくと、

といってもたいがいはテーブルが回っているのだが、

関鯖があると、すこし値がはっても、

ま、回転寿司だからたいしたことはないが、

注文してしまう。ふつうは、

こはだとか、げそとか、しめ鯖、カジキマグロ、さいごのしめで

納豆巻きと、値段のボトムのものしか頼まない。

だから、となりに座ったソーコーの妻も、

さすがにわたしの日本永代蔵のような

質素な注文のしかたに遠慮してか、

 ねぇ、うに注文していい?

 なんて旦那におうかがいをたてたりする。

回転寿司に来て、なになに頼んでいい? 

と聞くのも聞かれるのもなんか悲しいもので、

みすぼらしい比翼連理の夫婦である。

妻がうに食えば、こっちは関鯖、わたしの唯一の贅沢品だ。

 関鯖は、しかし、やはり味は鯖なので、

いささか下品さが残る。どこの社会にもいるじゃないか、

品がなくっても出世しているやつ、

あんなのとおんなじで、野蛮な大将さんは、

鯖本来の野趣味をのこしながら魚の力強い

上質の旨みをもつ。

つまり、下品と上品が拮抗しているのだ。

こういう拮抗のありかたを、

われわれは「ぎりぎり」とよぶ。

そして、こういった「ぎりぎり」をわれわれはひどく

好む傾向があるのであり、

このぎりぎりのバランスこそ、日本伝統の美なのである。

 究極の食通の好むものは、

もちろん鯖などでなく、

フォアグラやトリュフでもない。

松茸でも、天然鰻でも、ウミツバメの巣でもなければ

猿の脳味噌でもなく、フグの肝なのである。

あの猛毒なやつである。毒のある部分のぎりぎりが、

この上もない美味なのだそうだ。

ここを食べるのが食通のゆきつくところらしい。

一口味わうや、そのまったりとしたうまさに

うっとりとするのだそうだが、

ちょっと場所を間違えば、永久にうっとりとして、

二度と現世にはもどれなくなるのだから、

生きるか死ぬかの拮抗、命がけの食事となる。

最後の晩餐である。それを文字通りやったのが、

池上季実子のじいさん板東三津五郎。

究極の味を口にして他界したのだから

日本を代表する歌舞伎役者も本望だったのだろうか、

すくなくともぎりぎりの伝統美で有終の美を

飾ったことにはまちがいない。

 ついでに、ぎりぎりのニコチン中毒について。

ほんとのニコチン中毒は、

たばこをそのまま水に溶かして、

そのニコチン溶液をごくごく飲むらしい。

たしか、水に溶けたたばこは有毒なので、

あんまりたくさん飲むと他界してしまう。

だから、致死量ぎりぎりを飲む。

これがニコチン中毒患者の究極の幸福なのだ。ほんとかな。

 万引きなどの犯罪にもぎりぎりはある。

しようかするまいか、ここで悩むのだ。

ま、万引きにも精神的なメカニズムがあって、

このへんの事情は性的オルガスムスと

密接にかかわっており、これはまた別項で述べることにするとして、

じぶんのなかにある罪悪感と誘惑、

この板挟み、いわゆるジレンマにおちいるわけだ。

ジレンマという心的状況はにんげんの

行動をとめてしまうものだが、

この拮抗がやぶられた瞬間、スーパーマーケットの

商品はこっそり買い物かごにおさめられているのである。

かりにそのまま事なきを得て、

家の台所までたどり着いたとしても、

すでにそのときには万引き犯に幸福感はない。

ただ、罪悪感とそれにともなう倦怠感だけが

去来しているのだ。そうして、

やはりあとから気づく。盗むかやめるかの、

ぎりぎり、あのときの気持ちが至福の時だったと。

だから、あの絶頂感をもういちど味わうために、

意識的かほとんどすでに潜在的、

どちらにせよ、万引きが常習になってゆくのである。

 用便がしたくてしかたない。

駅からじぶんの家まで、はたしてどうしたものか、

困るときもある。走って帰ればその振動で

すぐもれそうだし、歩いて帰れば間に合わない、

というので、おもいきり膝を内股にして

早歩きで帰る。歌舞伎の女形がよろよろと

逃げまどうような姿である。

一目散にわが家に戻るや、靴は脱ぎっぱなし、

ズボンもそのへんに散らかして、

廊下をけたたましい足音で走り、

いよいよトイレのドアをバンと開け、

パンツをざっと下げ、そこで「ほっ」。

雲仙普賢岳の火砕流や土石流。

その「ほ」こそやはり至福の瞬間だ。

これも、でるかでないかのぎりぎりがもたらした

幸福論なのである。

 むかしの仏教では、世界には三つの国しかなく、

つまり、日本と中国とインド、

三国一の花嫁さんなんていう三国もこのことであるが、

その三国がお盆のように浮いていて、

まわりは海、水平線のあたりから

滝のようにまっしぐらに地下に落ちてしまうという

世界観であった。落ちてしまった場所が、奈落、

滝のように落ちるその場所を金輪際と呼んだ。

この世と奈落、つまりは地獄、

をむすぶぎりぎりが金輪際、

どの世界もぎりぎりが美しいのは

この名前をみてもすぐわかることである。