いま島崎藤村の詩集を読んでいる。
というよりも、恋するこころを持つとことばを失う、
といったくだりが藤村の詩中にあったはずなのだが、
わたしはそれをすっかり忘れてしまって、
片っ端からそのフレーズを探しているだけだから、
読んでいるわけではない。むかしは、
もうすこし頭の片隅にことばの片鱗が残っていたのになあ。
目と頭の衰退はいやでもやって来ているわ。
ところで、藤村詩集を見ていると、
やっぱりとおもうことなのだが、「恋」「恋ふ」という語はいくらでもあるのだが、
「愛」は見かけない。「君は寵児(まなご)と愛でられて」(問答の歌『落梅集』)と
「愛づ」という動詞はあっても「愛」という名詞は見つからない。
だから、藤村にとっては「愛」という概念は存在しなかった、
と言えるのかもしれないのだ。
「愛」は中国語の発音のままなのだから、
まだ異国臭がただよっているわけで、
へぇーい、ピース、ピースって言ったときのピースと
おんなじ語感が残っている。つまり、
まだ純然たる和語にはなっておらず、
それはからだの芯からにじみ出たことばじゃなくて、
理論的に作り上げている造語にみえてしまうのだ。
それなのに、いまどきの輩は、
愛している、愛している、を濫用するから、
わたしなどには耳障りでしかたない。
と、わたしは言語論に言及する気はなくて、
恋をするとことばにつまる、
というじつにセンチメンタルな話をしたいのであり、
その用例として藤村の詩を引用したかったのである、が、残念、見つからない。
人を恋すると、ちなみに「恋する」は和語、
大和ことばですよ、念のため、なぜ好きになったか、
理論的に説明をしようとしたり、
または、当事者からその説明をもとめられたりする。
ねぇ、わたしのどこが好きなの。
こんな具合だ。だが、この「どこ」を正確に
答えられるひとは、額田王でも、清少納言でも、
夏目漱石でも、川端康成でもとうてい不可能で、
つまりは皆無なのである。なぜなら、
ひとの感情には説明がほどこせない、という簡単かつ
自明な理屈があるからだ。ひとに好意や悪意をもったりするばあい、
種種様々な要因が網の目のようにからまって、
じぶんの精神構造を紐解くのにも、
こんがらがった釣り糸をほぐすよりも難解、
おっくうで、おそらくDNAの螺旋構造をまっすぐに伸ばして
天体望遠鏡の何千倍という倍率で精査するくらい
複雑な作業になるのである。
それを、ことばを媒介にして過不足なく
相手に伝えるとなれば、それはどこかをはしょったり、
気持ちとちがうことばを使ったり、つまりは、無理が生じる。
「秀夫くんは軽く唸りながらことばを探しているようだったが、
やがてこう切り出した。
『口に出すと、なにもかも嘘になってしまうような気がするんですが、・・』」
井上ひさしの『ナイン』という小説のくだりだが、
氏にとっても、ことばにしてしまうとじぶんの気持ちの
どこかに虚構があることは否めず、
そういう、ちょっとのうしろめたさを感じるからこそ、
登場人物の口を借りて、こう言ったのである。だから、どこが好き? に対して、
うん、きみのやさしさ、かな。
なんてね。こんなのは嘘っぱちなのである。愚の骨頂だ。
「こころ」と「ことば」には、悲しいくらいの
温度差があって、おまけに、享受側の能力次第では、
おんなじことばでも伝わり方にちがいが
生じるのも事実である。だから、文学者の歴史とは、
その「こころ」を埋めるべく、それにふさわしいことば探しを
エンエン繰り返している、といっても過言ではない。
大伴家持しかり、紫式部しかり、志賀直哉しかり、
村上春樹しかり、こんな作業を千七百年以上もつづけている。
そして、どの文学者も、こころをことばであらわすことの
不可能さをいやっというぐらい知るのである。
そこで、のたうち回ったり、ドン・キホーテのように
突進したりすると、けっきょくは胃潰瘍で患ったり、
精神衰弱になったり、自殺をしたりと、
ろくなことはない。だから、ことばで家族を養っている者々は、
ある程度で妥協して、いい湯加減で表現しようとするようになるのである。
どーせ、できないんだからいっか、
なんていう純粋な開き直りをむつかしく言うと、
文学あるいは芸術至上主義という。
恋をするとことばをうしなうという症状も、
じつは恋をするばあいにかぎったわけでなく、
ひとは、どの場面でもちゃんと相手にこころを伝えようとすると、
ことばをうしなうものなのであった。
だから、あるひとに言わせると、
じぶんの気持ちの半分も伝えられたらそれは完璧にちかく、
また、相手もそのことばの半分くらいしか理解できないそうだ。
ということは、じぶんの気持ちは、
相手に四分の一の内容しか伝わらないという計算だ。
あのひとはちっとも私をわかってくれない。
という不満はぎゃくに当たり前なのであって、
ひとの気持ちの四分の一も理解できれば、
それはおおよそ完全に理解しているという。
満足すべきなのである。ま、わたしは算数に不案内だから、
こういった分数には説得力があるのかどうかわからないけれど、
相手にはなかなか伝わらない、ということなのだ。
ことばを商売にしている人びとは、
仕事では、終わりのないことば選びとことば探しを、
無理を承知で繰り返しているが、
では、そういう人たちは日常生活でもその作業をするかといえば、
そのへんがすこぶる疑わしい。どーせ無理ならと、
ふだんは、かえって無口になるのではないか。
文学者に多いじゃないか、むっつりっていうの。
鰻屋が鰻をくわないというのと、
料理人が家ではいっさい厨に立たないというのと、
医者の不養生というのとおんなじように、
文学者はことばを使わないのである。
ことばを発せば、かならず嘘がまじるからである。
彼らにとっては星の数ほどの美辞麗句を弄することは
容易にできるが、看板だけ掲げて中身のないことばを
使ううしろめたさは、苦痛以外のなにものでもないのである。
ここで、カッコイイ一言ですっかり女性のこころを
とりこにさせることは、吉行淳之介でなくても出来たろうが、
その一言はとても罪深く感じるものだ。
ということは、ふだんから「なぜ?」という問に、
その理由をのべることを文学者達はひどく
苦手とするところなのである。いちいち、
その理由が嘘に見えて、けっきょくじぶんのおもいとほど
遠いことを口ばかりが勝手に動きながら述べているなど、
想像もしたくないだろう。そのひとことで
相手がどんなにうっとりすることが予想できても、
できないのだ。そういう虚構性を感じないで平気で
カッコつけているのは馬鹿がやることなのだ。
そんな馬鹿をプレイボーイとわれわれは呼んでいる。
ということは、プレイボーイは虚言癖だ、
という真理に到達することになる。
そうして、もうひとつの真理、
寡黙になった文学者の家庭は、
なんにも説明も理由も言わない家長が居座り、
おのずそういう家は夫婦仲がわるい、
という事情に到達するのだ。漱石と鏡子がいい例である。
だから、わが家も仲がわるいのである。