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好意

仕事に休みがなくなっておよそ5年。

 一日たりとも休日がないのだが、年に数回、
おねだりをして店を休む。休むときは、
いつも、沼津への釣行である。


 鍋にはうるさい、といいながら、
なんにでもうるさい野田さんが、毎回同行してくれる。

 というより、わたしの行ける日に、
かれが仕事をやすんでくれるという、わたしには、
ひどくありがたい方なのである。

 沼津に行けば、そこには、これも毎回、
ヤマダさんという名人が待っていてくれる。

 むかしは、ゴン・ヤマダというあだ名があった。

ごんずいしか釣らなかったからだ。
が、ヤマダさんは、こと釣りに関しては学究肌で、
すこぶる研究を重ね、いまでは、ほとんど毎回、
黒鯛をあげている。

 そして、野田さんとわたしときたら、
ほとんど、ボウズ。ナッシング。ゼロ。


 妻が言うには、さいきん、みかんしか持ってこないよねって。

たしかに。

釣り場のそばで売っているみかんを買ってかえるのだが、
沼津の土産はそのみかんだけなのだ。


 そんなことがつづいたせいか、ヤマダ名人、
じぶんの使ってるしかけのことごとくをわたしたちに披露してくれた。

 それは、手作りのウキ、手作りの錘(おもり)、
すべて手作りである。そのうえ、ものすごく精巧でうつくしい。

 ウキ下の長さはこのくらい、そこにガン玉をこのくらい、
ことごとく名人のいうとおりのしかけができあがる。



つまり、ヤマダ名人のしかけが横に三列にならんで、
海にむかって出されたわけである。


 が、このときは、三人ともボウズ。ゼロ、ナッシングであった。


 ヤマダさんはすこぶる親切で、受益より他人のため、
という心優しい方である。

 ただ、わたしどもは、これから沼津に行くたびに、
ヤマダ流の釣りをしなくてはならなくなった。

 野田さんとわたしのしかけを
完全に用意してくれたからである。

 釣りというのは、自宅にいるときからはじまっている。
季節や天候、場所をかんがえながら、じぶんの頭で
想像し、道具やしかけや服装をかんがえる。

 それが、ひょっとするともっとも楽しい瞬間かもしれない。
換言すれば、釣りにおける知性的な領域である。

 釣りの現場では、そんな知性はちっとも役に立たない。
そこには、自然と対峙した本能的な釣り人しかいない。


 しかし、すでにしかけが決まってしまったいじょう、
わたしは、家にいながら、つぎの釣りのための想像が
できなくなってしまったのだ。


 ヤマダさんの好意はいたいほどわかる。
ありがたい。

 じぶんの秘密を、こうもたやすくわれわれに指南してくれるなんて。

  が、その好意とおんなじくらいの分量の楽しみも失ってしまったのだ。

 さて、3月の後半にわたしは、沼津釣行を計画している。

 そのときまでに、じぶんはどんな楽しみ方をすればいいのか、
また、べつの想像力を発揮しなくてはならなくなったのだ。