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クリスマス

 プラグマティズムというのは、デューイというひとが
提唱したかんがえかただが、
いわゆる実用主義とか訳されている。


 日本人が、こうも他国の催しを日本風にしながら、
それを日本文化に取り入れてしまう、このはしたなさと言おうか、
器用と言おうか、そういう心的動向は、
そのプラグマティズムによってである、と、
よく説明されている。


 クリスマスなんて、その最たるもので、
聖なる日であった降誕祭が、日本にわたってくるや、
乱痴気騒ぎのメッカみたいになって、
パーティーだ、とか、お祝いだとかいって、
はしゃいでいる。

 まったくもって俗なる日に変貌させてしまった。

日本人のクリスチャンは1%未満である。
クリスチャンでもないくせに、ちゃんとクリスマスだけは、
お祝いするのだ。すばらしい。

 しかし、だれのためになんでお祝いするのか、
おそらく、その本質を理解して祝うひとがどれほどいるのか。


 そして、一週間も経たぬうちに除夜の鐘。
あれは、仏教だ。

 そして、その翌日。神社に初詣。
あれは、神道だ。

 そして、数ヶ月経つと、バレンタインデー。
クリスチャンでもないくせに。
おまけに、手作りチョコート。

 ただ、湯煎でとかしてどろどろしたものを
もう一度固めるだけを「手作り」と称している。

 手作りなら、カカオから作れよ。

 それは単なる「移動チョコ」である。

日本人は、なんでもこんなふうに日本風にやりたがる。



 よその世界の変化に対応する変わり身の早さ自体が
伝統化されているのが日本文化だというが、
まさに、プラグマティズムの権化である。


 そういう日本人、あるいは日本を
ひとことで言うと「キョロキョロ」だそうだ。


 ただし、ペリーが来航して開国を迫ってきたとき、
このとき、日本が植民地にならずに済んだのは、
その当時のひとたちの功績といってよい。

 明治政府、というかそのときの日本人は、
江戸というのんびりした時代、これを岸田秀というひとは、
「苦労知らずのおぼっちゃん」と評したが、
そのおぼっちゃんが、つきあいたくもない背と鼻の高い
外国人にお愛想をしなくてはならない。

 付き合いたくないけれども、付き合わなくてはならない。

このとき、当時はどうしたかといえば、
建前では、ペコペコし、本音は、こいつら嫌いだっておもっていた。

 日本人の本音と建前は、このへんから生まれたらしいのだ。

 つまり、そういう二重人格的なやりかた、
もっと言えば、精神分裂を病むというソリューションをとったがため、
どうも植民地化されずにすんだ、というのが、岸田秀というひとの
言説である。

 ただ、植民地化されないかわりに、日本人、あるいは日本の政府に、
ぬぐいがたい亀裂と傷痕とが残ったのである。

 世界は無菌室ではないので、さまざな他国とのつきあいや、
それにともなう痛手を負いながら、国は動いている。

 
 そして、われわれはそういうことにひどく無関心である。

 どこかから注入された流行りものに、じぶんも随行し、
遅れてなるものかと、その流行りものに飛びつく。

 なぜ、それをするの?

 という質問に、「だって流行だもの」と答える愚かさを、
愚かとおもわずに生きられるのも日本人のいいところかもしれない。


 さて、こんな話を授業でしようとしたのだが、
まずは「まくら」ということで、
「みんなはさ、去年のクリスマス、どうしてたんだ?」
と発問した。

 いちばん前にすわっているマリン(仮称)という子、
神奈川のトップ校に通っているのだが、その子に訊いてみた。


「マリン、君は、去年のクリスマスなにしてた?」

と、マリンは「え?」って言ったきり、赤面して下を向いたまま
なにも答えないのだ。


「え。おい、マリン。お前なにしてんだよ」