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間違ったレッサーイーブル

 レッサーイーブル、悪の最小化は

いわゆるリスクマネージメントの一面を

有しているが、これが

国家規模で再演されるとなると、

かなりシビアな構図になってくる。

 究極の選択といってもいい。

 

 

個人レベルでは、じぶんの命日と

じぶんの死に方、どっちが知りたくないのか、

とか、時間にルーズなひとと

お金にルーズなひととどちらを選ぶかとか、

そんな選択なら、うーんとうなりながら、

お茶でも飲んでかんがえればいい。

 

 

 しかし、いざ権力の世界となると、

たとえば、無実の罪で捕まってしまった

「北関東連続幼女誘拐殺人事件」の話である。

1979年、冤罪となった菅家さんが無罪となっていらい、

その犯人はまだ娑婆にいる。

DNA鑑定して、おそらく犯人はやつだ、

まで、検察も警察もわかっているらしいが、

それをつきとめない。

 このあたりの事情は

清水潔の「殺人犯はそこにいる」(『新潮文庫』)に

くわしいので参照されたい。

 

 

 

 証拠裁判主義における裁判では、

けっきょく、検察に不利な証拠は提出する必要はないので、

「これ犯人はぜったい着られない服だよね、

小さすぎるから」

という確固たる証拠が現場から出てきても、

それを裁判所に提出する必要がないのである。

 検察の不利になる証拠は

ネグレクト、隠蔽するのだ。

デュー・プロセス・オブ・ロー,
百人の罪びとを放免するとも

ひとりの無辜の兵を刑するなかれ。

法律はそう述べているのだが、

事実は、

「こいつが犯人」と決めてしまえば、

それに見合う証拠だけを検察は裁判所に提出し、

恣意的に犯罪は捏造され、

冤罪は再生産されてゆく。

 この図式が世に広まらないように、

北関東連続幼女殺人事件は、

幼い五人の人命を顧みず、

お蔵入りになっているのである。

 それは、

「ひとの命」か「国の威信」かという二者択一である。

 

 

 

日航123便は524名の尊い命を奪った

国内外最大級の飛行機事故である。

ボーイング社の圧力隔壁の破損による事故であると

事故調査委員会は結論をだした。

が、小田周二というひとの

「日航123便 乗客乗員怪死の謎」(文芸社)に

よれば、はなしはずいぶんちがってくる。

 

 

1985年8月12日。

日航123便が東京から大阪に飛びたって

まもなく、自衛隊の無人偵察機が

123便の尾翼に衝突したのだ。

尾翼を失った123便はダッチロールをはじめ、

コントロールをうしなう。

機体はそれでも斜め上の姿勢をたもち

緊急着陸にそなえていた。

アメリカ空軍から、横田基地に着陸せよという

アナウンスを国は拒否した。

 

 

無事に着陸してしまえば、

自衛隊の「落ち度」が露呈するからである。

国の「悪の最小化」は、

自衛隊の「落ち度」と民間人550人の命との

リスクマネージメントとであった。

 

 つまるところ、123便の乗客には

もうしわけないけれども、

自衛隊にはミスはあってはならない、

という決断だった。

 迷走するジャンボジェット機の後方を

二機の自衛隊機が追尾しているところを

目撃しているひともいた。

 123便はあくまで、機首をもちあげ

不時着体勢にはいっていたのだが、

そのとき、機内で大きな音がしたと

生存者は、証言している。

 その音とともに機体は大きく

傾き、下降して御巣鷹山に激突したのである。

 それが、どうも、自衛隊機による

ミサイル攻撃だったとおもわれる。

 つまり、国の権威のため

民間機を爆撃したのである。

 

 

 その後、御巣鷹山に自衛隊員300人がのぼり、

墜落現場を火炎放射器でとことん燃やしたという。

 ほんとうかどうかは、定かではない。

が、半日、捜索隊が足止めされ、駆けつけた

彼らが最初に見たものは、油のにおいと、

人びとの跡形もない姿であったという。

 ジェットエンジンのガソリンは

油のにおいなどしないはずなのだが。

 

 

 

 この物語が、真実なのか、だれかの贋作なのか、

それは、わからないが、もし、それが真実であったなら、

国のレッサーイーブルは、人命ではなく

国の権威であったとことはまちがいない。

 

 

当時の首相、中曽根康晴は

「この案件は、墓場までもってゆく」と

語ったというが、その真意はわからない。

 

 

しかし、この事故のあとから日航は、

ボーイング社からしかジェット機を

購入していないし、

また、落ちている尾翼は

まだ相模湾の海底にあり、

場所も特定されているが、それを

引き揚げることをしない。

 

 

 

 これがレッサーイーブルの正体である。

 が、しかし、わたしのもうしあげている

「悪の最小化」としてのレッサーイーブルの

使い方はおそらくまちがっている。

 

 

レッサ―イーブルの語彙の使用法を

あやまっているといってもいい。

 

 

 マイケル・イグナティエフなどが

かんがえている悪の最小化は、

このような図式ではないはずだ。

もちろん、カナダの社会学者は、

国家レベルの隠蔽に言及してもいない。

 

 

 

 しかし、このまちがった使い方は

わたしのせいではない。

 国が間違っているだけなのである。