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最終地点なのか

理性的に、矛盾なく想像できる

可能な世界を「論理空間」とよぶ。

 

つまり、どんな夢想をしても、

それが馴致された経験のなかで

最大限に発揮していい創造の領域である。

 

「夢」とよんでもよい。

 

それをいまの受験生に投げかけてみたのだ。

 

と、異口同音、答えはきまっていた。

 

「お金持ちになること」

これだった。

 

 それでも何人かは宇宙に行くこと、

という答えをもっていたが、もちろん、

マイノリティであることはまちがいない。

 

 救急車の運転手になること、

ジェット機のパイロットになること、

消防士になること、

なんて、昭和の青少年のような回答は

なにひとつないのである。

 

 世俗内禁欲、ということばがある。

修道院の禁欲はもちろんのこと、

その禁欲精神を世俗外でも保てという

マックス・ウェバーの言説である。

 

世俗内禁欲のもっとも尊崇な事情は、

たくさんの金銭は不要である、という考量だ。

 

つまり、「お金持ちになること」の

対極にある。

 

 世俗内禁欲が理想であるとは

いわないけれども、

みずからこつこつと導き出す幸福が

そこにあるからこそ担保されている発想なのだろう。

 

 だが、いまの受験生は、

みずから生み出す剰余の幸福には

目がとどかない。あるのは「金」なのだ。

お金があるから幸せとはかぎらないが、

みずからの快楽による幸福論が

からっぼなのかもしれない。

 

 みずからの快楽による幸福は、

好奇心と積極性というチップがなければ

作動しないわけだから、

そのチップは、たぶん、どこかにしまってしまったのだろう。

 

お金を貯める努力は必要だが、

そこには、じぶんの「夢」はつまっていない、

ということを吟味しないのが、

いまの若者のステータスなのだ。

 

つまり、みずからの幸福論は

みずからの身体を浮遊して

お金という外部の物体にゆだねている

ということにほかならない。

 

じっさい、いまのひとたちは、

みずからのコクーンのなかに居座って、

どこかに出かけることはしない。

所与のみずからの領域におさまって、

そこでの最大限の利得を得ようと腐心する。

それをコスパとよぶのであるが、

コスパ重視の価値観は、お金しかないのである。

 

身体からはみだした幸福。

 

携帯でググってなんでも調べて、

そして、安心して、その内実をすぐ忘れ、

いったいなにを調べたのかも失念し、

ともだちの電話番号も、スマホにいれてあるから、

そらで番号をかけられることもできない。

 

脳もはんぶんくらい、携帯に依存する時代である。

 

脳からはじまり、身体までもが、

外部の装置や物体、金に依存し、

そこでは、

すでに、からっぽな肉体が再生産されていることに

どこかで気づかないと、

いまの感情の劣化は

坂をくだるように、加速してゆくのではないだろうか。

 

幸福をめざした高度文明と高度資本主義がうんだ

副産物として、ニンゲンの劣化がおきている

というパラドクスは

すでに最終地点にきているのかもしれない。