「話す」という行為は「放す」と
同義であって、「話」には言葉が必要だが、
その言葉は「言霊(ことだま)」であるので、
「話す」とは魂を放すことに他ならない。
島本理生の『リトル・バイ・リトル』にも
柳さんが
「まあ、どちらが先に死ぬかなんて天が決めることだとは
思ったけどね、一応、約束はして」(中略)
「そして本当に約束どおり、妻は去ってしまった」(中略)
「どんな言葉にも言ってしまうと
魂が宿るんだよ。
言霊(ことだま)って言うのは嘘じゃない。
書道だって同じことで、
書いた瞬間から言葉の力は紙の上で生きてくる。
そして、書いた本人にもちゃんと影響するんだよ」
と言ってるように魂が宿るわけだ。
もちろん、わたしは書道については
門外漢だが、言葉については柳さんと
同意見である。
だから魂を放すのだから、
とうぜん、カメハメハーのように
両手をつかったほうが効果的だ。
つまり、ひとに話すときは手を使ったほうが
よほど相手に伝わるというものだ。
なのに、学校の教員の多くは
教卓に両手をふんばるようにして
授業をしている。
ガマガエルのような
スタイルだ。
その行為はとうぜんプロとは
よべない姿である。
なにもわかっていないのだ。
また、ひとにはそれぞれオーラがある。
あるとおもっている、と言ったほうがよいだろう。
霊能者に言わせれば、
もっともきれいなオーラは
綾瀬はるかさん、北川景子さん、清原果耶さん
などだそうだが、また逆にオーラがないのは
「ゆう」さんだそうだ。
でも、霊能者でなくても、
だいたいあのひとは、あんな感じだよねって
うすうす勘づくものである。
それをオーラと呼ぶなら
オーラはあるはずだ。
で、一人ひとりちがうオーラがあるなら、
それに見合った付き合い方も、じつはある。
話す内容だって、そのひと、ひとによって
ちがう言い方になるのが、
とうぜんのことだろう。
なのに、一方的に話しまくるひとがいると
ひどくこちらは疲れる。
相手にお構いなしな話し方
いつも、どこでもおんなじトーンで話すというやつだ。
そうするとこちらは、
その一方的な暴力といってもいい
口調にあわせなくてはならない。
この事情は、
教員の話し方にも類比的で、
生徒ひとりひとりに合わせて話せるか、
どうかで、教師の優秀さが決まるのだと
わたしはおもっている。
もちろん、全体にたいして
講義するときは、そんなことできないが、
個人的に発問するときなどは、
その生徒に見合った言い方というものを
チョイスできれば、ベストだろう。
それには、その生徒の「色」をみて、
それに合わせた言い方をする。
「きみ」というのがいいのか、
おもいきり「おまえはさぁ」と言ってもいいのか、
「あなたはね」って切り出すのか、
もちろん、いまの時代「おまえはね」っていうのは
ご法度かもしれないが、
授業の現場では、「あり」なのである。
それが、教師と生徒との絆になって
いるからだ。
そういう微妙ではあるが、
物差しをもっている教員がほとんどいないのかも
しれない。
なんとかハラスメントとか、
いろいろなハラスメントという語が
誕生し、文句をあたりまえに言う
保護者、モンスターがいたり、
職員室は、そんな重圧に精神的に
縮こまっているひともいるのじゃないか。
そんなひとに、生徒それぞれに
話し方を変えろなんていうのは難儀なことだろう。
しかし、言葉はあくまでも言霊であり、
言霊は未来永劫、存在するのだから、
すくなくともわたしは、その魂をかかえて
仕事に出てゆくのである。
