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主語が大きいひと

 わたしは主語の大きいひとを信用しない。

「世の中は」とか「時代は」と

大上段にふりかざすひとがたまにいる。

 

なぜなのか。

「わたしは」とか「管見ですが」でいいじゃないか。

 

 だいたい、主語の大きい輩は

おまぬけな大衆を引き寄せる力をもつ。

それは、人格からではない、

その主語の大きさに引き寄せらるだけである。

 

 むかし、わたしの通っていた小学校の

PTA会長のOさんもそれだった。

 

「いまの時代は・・」と

役員さんのねぎらいは、その多忙さを

「時代」を語頭にしながらするものだから、

役員さんからはじつに信奉熱かった。

 

「いまの時代は、忙しいから」

のつぎに「・・はやめましょう」

と、いままで築き上げてきた歴史をすべて

チャラにしようとしたのだ。

 

「見回りはやめましょう」

「広報の冊子はやめましょう」

 

それは役員さん喜ぶよな、メンドーな

仕事が激減するから。

 

仕事には三種類ある。

「わたしの仕事」「あなたの仕事」「だれの仕事でもない仕事」

である。

 

PTA活動は、その「だれの仕事でもない仕事」だから

メンドーなのだ。が、その仕事をすることが

崇高なことなのである。

 

だれが捨てたかわからないゴミを拾う、

というのもそれである。

 

だが、O会長は、すべてをやめましょう、

と。

 

どこまで彼が計算しているかわからないが、

そういう言い回しで人気をとることを

意識しているのなら、老獪、狡猾きわまりない。

 

こういう主語の大きい手法を「ポピュリズム」という。

大衆扇動主義というものだ。

 

ポピュリズムは、大衆が思考停止におそわれたときが

もっとも効力を発揮する。

 

PTA活動という

言ってみればおしつけられた仕事で

被害者的な気も含まれるだろう、

そのとき、ひとは少なからず思考停止に

似た心象になるものだ。

 

そういう間隙を縫ってポピュリズムは

作動する。

 

「あ、あの会長さんに従っていけば

いいんだわ」というトータリズムのような

空気が役員さんに去来する。

 

第二次正解対戦勃発の

ひきがねも、陸軍大将、東条英機の

「戦争はやってみなければわからない」の一言から

はじまったと言われている。

 

すべてはポピュリズムの結果なのである。