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多様性の価値観 ふたたび

 差別と区別はまったくちがうことらしい。

差別はご法度だが区別は必要だ、ということだ。

「これは区別です」なんて

口角泡をとばして語っているひともいる。

もちろん、風呂やトイレは区別が必要だが、

はたして、差別と区別は別物なんだろうか。

 

 言葉は、対象に侮蔑的意味合いをもつばあい、

取り換えられる。体の不自由な方とか、

登校拒否ではなく不登校とか。

 

 でも、その内情はまったく変わりない。

言葉というものは、本質を隠ぺいするときに

じつに有効な装置なんだとおもう。

 

 アフォーマティブアクションという

概念がある。

 日本語にすると積極的差別是正措置という。

いわゆる差別階級の、たとえば、女性、人種的マイノリティ、

障碍者にたいし、機会均等をめざす国家的な待遇措置のことである。

 

 たしかに、じつに素晴らしい施策である。

世の中における「多様性」の実現という意味だからである。

 

 企業もどんどんとマイノリティの人とか

障碍者を雇用するように政府が推し進めている。

 

ただ、あるひとが発言していたが、

ひとりのマイノリティを採用すれば、

マジョリティの誰かが解雇されることになる。

それによって企業がマイナスになるのではないか、と。

 

 極端な例でいえば

日本代表のバレーボールチームに

ひとり家庭婦人のバレーのひとが入ったら

たぶん、国際試合ではひとつも勝てないだろう。

 

 ようするにリスクマネージメントになる

ということだ。

二者択一のひとつを選べばかならず

リスクがうまれる。

この図式を「トロリー問題」というが、

フォーマティブアクションにはかならず

トロリー問題がつきまとう。

 

 

世の中は「多様性」が肝心だといわれている。

「多様性」という言葉があるということは、

今の世の中、多様性ではない、ということを

宣言しているわけだ。

 

 つまり多様性ではない世の中とは

差別や区別があるということにほかならず、

多くの人が、マジョリティとマイノリティ、

あるいは健常者と障碍者、

男と女というぐあいに二項対立的な思量を

日常おこなっていることにほかならない。

 

こういう差別・区別はどこからうまれるかといえば、

有徴性・無徴性という概念から起こっている。

有徴性、言い換えれば「汚れ」である。

無徴性は「無垢」である。

 

白人は無垢、黒人・黄色人種は汚れだ。

 

白人の夫と黒人の妻との子は、すでに

一滴でも汚れが入り込んでいるので「汚れ」となり、

その子は黒人にカテゴライズされる。

ハル・ベリーという美人女優は

ざんねんながら、黒人女優とされている。

父は白人なのだが。

 

内田樹さんもおっしゃっていたが、

そろそろ、こういう対立構造に賞味期限をもうけたら

どうかということだ。

 

いつまでも、有徴・無徴の意識をもっていたら、

いわゆるレイシズム、人種差別は収まらない。

 

それと、同様、多様性の価値観も、

じつは、この有徴・無徴の意識から

生じているものなので、どこかに、

君はわたしたちと違うのだよ、というレッテルを

無意識に貼りこんでいるのである。

 

 この価値観こそ、それに賞味期限を与え、

マジョリティもマイノリティもない

世の中にすることが望ましいのではないだろうか。

 

たしかに理想論ではある、が、

その方向性に世界が動けば、

アフォーマティブアクションという言葉は

消滅するはずだ。

レイシズムもしかり。

 

だから、すべてのひとが

水平な地平に生き、あとは

資本主義なら能力主義だけになってゆくだろう。

メリトクラシー、能力主義が正しいかどうか

わからないが、差別・区別の概念は払拭される

ことになろう。

 

こういうふうにおもうと、

わたしは、区別も差別もそんなに変わらないことではないか、

と、つくづく考えてしまうのだ。