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毎月抄より

藤原定家は『毎月抄』でつぎのようなくだりを残している。

 

およそ歌をよく見分けて善悪をさだむる事は、

ことに大切の事にて候。

ただ人ごとに推量ばかり心は侍ると見えて候。

其故は上手と言はるる人の歌をばいとしもなけれどもほめあひ、

いたくもちゐられぬたぐひの詠作をば、

抜群の歌なれども結句難をさへとりつけてそしる侍るめり。

 

 

「ただ人ごとに推量ばかり心は侍る」とは、

歌の良し悪しは歌そのものでなく、

作者によって判断されている、

という事情の婉曲的な物言いで、

「いとしもなけれどほめあひ」(たいしたことがないのに褒め)と、

無自覚な価値判断への警鐘である。

言い換えれば、それは価値判断でなく、

事実判断にシフトしてしまっているということにほかならない。

 いつの時代であれ、有名歌人となれば、

すべてが名歌であるという「思い込み」はあるものである。

もっといえば、いまの世では、有名歌人のもとの、

有名結社でないと、「賞」が取れない(取りにくい)という

事実は否定できない。

これは、歌の世界の宿命といえばそれまでであるが、

読者としてのリテラシーの要請、

という喫緊の課題がすっかり放置されているということと同定する。

 リテラシーとは、(情報などの)収集能力と考えればいいんだが、

収集能力だけでなく、情報発信能力にもあてはまるタームであろう。

 

 

 ・思ひ出でて名をのみしたふ都鳥あとなき波に音をや泣かまし

 

 阿仏尼の『うたたね』の一首。

むかしのことを思い出して、

その名をばかり恋しくおもう都鳥は姿もみえない、

跡もない、その波にむかってわたしは大声で泣こうかしら。

もちろん、『伊勢物語』の「東下り」が下敷きにあることは、

だれでもわかるが、たとえば「音をや泣かまし」の「まし」をわれわれは、

どれだけ理解できるだろう。「まし」という

助動詞は日本語の文法から姿を消した

「ためらい」の用法である。

 

現代短歌がひさしく忘れてきたものは、

この「ためらい」の感情ではないか。

古代人は「泣こうか泣くまいか」という

こころの揺れの含意を、

この「まし」というたった一語の助動詞に打ち込めたのである。

いまの時代、アメリカの政治みたいに

「白か黒か」「善か悪か」「敵か味方か」という、

二極化が、シンプルかつクリアカットでスマートな

考量だという信憑がこびりついている。

短歌もそうである。はっきりとじぶんのおもい、

好悪をきっぱりと裁断しているものが多い。

また、そういう歌がいい歌だという査定もされている。

 

 作歌と批評は、表裏一体である。

はたして、「これが好き」っていう歌ではなく、

「こういうのどうしたらいいの」っていう

古代人のもっていた迷いやためらいを含んだ歌も、

試してみたらどうだろうか、

あるいは、そういう歌を評価したらどうだろうか。

 それは、もちろん、

すべて「リテラシィ」にかかわるものであるのだが。