じぶんが、どれだけ農耕性がつよいかを試すなら、
たとえば「なぜ十二月二十四日にケーキを食べるか、
その理由は」という問いに「クリスマスだから」と答える。
そう答えたひとはじゅうぶん農耕民族です。
キリストがどうのこうのと、
その元来の宗教的意味を答えたなら話はべつです。
農耕民族は、議論ができません。
となりとおんなじことをしていればいいわけで、
ひとりでも抜きんでているひと、
ひとりでも遅れるひとがいると、
そのひとを排除しようとしたり軽蔑したりします。
ただ、おだやかな自然のなかで、
自然と同化して暮らしていれば、議論など不要です。
「おまえ、言わなきゃわからないのか」
これが農耕民族のテクニカルタームです。
しかし、議論はきらいなのですが、
おしゃべりは大好きです。
いわゆる「おしゃべり好きの議論嫌い」です。
なかなかお母さんが帰ってこないとおもったら、
商店街で二時間もおしゃべり、よくある風景です。
デモクラシーは近代にオプションではいってきた思想ですから、
それが骨肉化されていないのです。
ヨーロッパは狩猟民族ですから、他者は敵です。
ですから、まずじぶんの意志をイエスなのかノーなのか、
伝えておく必要があります。議論的です。
それはコトバによる命のやりとりが
あるかもしれないからです。
その点、農耕民族は、コトバによって危険が
生じるなどみじんも考えていません。
文末決定性もこういう事情で必然的に
生まれてきたわけです。
両親にまともに朝の返事ができないのも
こういう性情からです。
国会の質疑応答などまったくなってないですね。