そこで表現者は、馴致された経験のコトバでも、
まったく無関係なコトバ同士をむすびつけて
あたらしい世界を作ることもします。
たとえば、リンゴだと「赤」とか「甘い」とか「果物」とか、
リンゴに関係するコトバはいくらでも出てきます。
こういうその語からイメージできる語を
「言語的布置」といいます。つまり、「言語的布置」でない
コトバの組み合わせが文学の入口をつくる、
ということです。たとえば、
「サラダ」と「記念日」というまったく
関連性のない語の組み合わせとして
「サラダ記念日」としてみる、とか。
こういう原語的布置ではない語の
衝突が文学的に有効であることをわれわれはよく知っているのです。
あるいは、コトバの特性として、
こういう語彙があったら便利だ、
というときに、我われの先人は造語したりします。
もちろん、西周の「科学、哲学、芸術、主観、理性、技術」などなどの
造語は周知のとおりですが、
さいきんでは、DNAとか、エイズとか、
そういう造語も多くあります。
こういう造語のことを「操作概念」とよびます。
資生堂が男性化粧品の売れ行きの悪さに造語したものが
「加齢臭」です。この操作概念のおかげで、
男性化粧品が右肩上がりに売れたそうです。
ですから、日本語はどんどんその語彙数を
増加させてゆくのです。英語は千五百語、
フランス語は四千語あれば日常困らないらしいのですが、
日本語はふだんの生活にすくなくとも
二万七千語は必要らしいのです。
「雨」のつく語だけでも七百はあるとされています。
おそらく、日本人の農耕性とふかく関係しているわけで、
自然とむすびつく語がおびただしく存在するのでしょう。
グローバル化がすすむなか、
やはり、日本人には元来、
農耕民族の血がながれているのであって、
「みんなおんなじ」という考えは捨てきれません。
「なんで、私だけ怒るんですか、
みんなやってるじゃないですか」という具合に。