わたしがまだ高校の教員だったころのはなしである。
安んじて事を託さるる人となれ
おのずと知れた本校校訓。大学も、
おんなじ校訓であることは周知のこと。
安んじて、とは安心して、託さるる、
とは任されるとほぼ同義である。
手放しで人に信用される人間になる、
なんと素晴らしい校訓であろうか。
なんだか教育テレビの道徳の時間に紹介されても
おかしくないくらいの正しい教えである。
信用の失墜はあっというまになされるが、
信用の積み重ねは並大抵ではない。
後の副総裁、後藤田正晴がまだ官房長官だったころ、
かれが危機管理のオーソリティとして、
全幅の信頼を置いていたのが、当時の秘書官、
平沢勝栄と内閣安全保障室長の佐々敦行の二名だった。
かれらふたりの仕事で顕著だったのは、
大島噴火の全島避難があげられよう。
ひとりの犠牲者もなく全員を救出した。
ま、後藤田さんが警察庁長官であったときに起きた、
安田講堂たてこもり、あさま山荘事件も、
佐々敦行が陣頭指揮を執っているという
長い歴史においての信頼であったのだが。
後藤田さんが語っているのには、
彼らふたりがいるんだからこっちは黙って見てればいい、と。
ただやり過ぎんようにしなくてはな、
とも付け加えていた。
安んじて事を託さるる人、というのはまさにこんな人なのであろう。
ところで「託さるる」の文法に着目すれば、
「託さるる」の「るる」はもちろん古語で、
現代語では「れる・られる」。つまり受身や尊敬、
自発を意味する助動詞である。受身の助動詞の発生は、
人にだまされる、嫌われる、雨に降られる、
ともかく迷惑を意味する。
だから、先生に誉められるという、
迷惑の対義のような意味合いは歴史が浅いのである。
軍記物語では、じぶんが弓矢にあたったときなど、射られる、
と表現しないで、射させる、(射させてやった)と
わざわざ使役を使ったのもやはり迷惑の意味合いが
濃厚だからこそで、飯は食わねど、の権化のような表現になっているのだ。
本校校訓はも崇高な人生訓である。
この「任される」は受身であるものの、
迷惑の意味合いが皆無であることは自明のこと。
おおいに人から任されて仕事をしようではないか。
話ががらりととんでもうしわけないが、
むかし、東急の重役の娘が父とデパートに行ったとき、
さすがに重役、このデパートにあるものならなんでも
購入してやると言ったそうだ。そうしたら娘は、
このデパートが欲しい、と言ったという。
この親にしてこの子有りの典型のようなエピソードだが、
この発想が、重役の娘の発想なのだ。
つまり、雇用者の目線ではなく、管理者の視座なのである。
管理者や経営者など、あまねくひとの上に立つ輩は、
雇用者とおなじ視線の位置でものをみたら経済はうまくゆかない。
万馬券を当てることをいちばんの夢にするのでなく、
競馬場を経営することを第一義に考えるようでなくては
人の上に立つことはできないのである。
もちろん人の上に立つことが人生の最大の目的ではないのだが。
賽銭泥棒するくらいなら、ひとつ寺を作って
拝観料を取ればいい。こういう発想が大事である。
そういえば、むかし本校の職員だった人の話だが、
じぶんの家の庭に大きな石があってこれが
外の通りにつきだしているものだから、
勝手にしめ縄をこさえて、なんとか大明神なんて
旗さしものみたいなものまで立てて、
あげく賽銭箱を置いていたら、
毎朝そこにお賽銭が入っているというのだ。
いまでは毎朝入っている金を勘定するのが楽しみに
なっていったって言うんだから舌を巻く。
経営能力があるじゃないかとおもう。
が、もちろんこれは法律違反ですよ、念のため。
で、さいきん気づいたこと。
安んじて事を託さるる人となれ、
というスローガンは優秀な雇用者を作るもので、
けっして経営者を育成するものではない、という事情である。
むしろ、人の上に立ち、水際だった指揮をとり、
会社やひいては国家をやりくりするのには、
安んじて事を託さるるのではなく、
安んじて事を託す人となる、べきなのではなかろうか。
安心して人に命令を下す指揮官となるのが
男の魅力ある目標ではないのか。
男の理想の職業は、指揮者と野球の監督である、という。
どちらも専門家軍団の陣頭指揮を執るからである。
そういう意味で、本校校訓は、
崇高な人生訓の意味合いとともに人のうえには立てない、
という二律背反のような色彩をおびているのである。
校訓通りに生きてゆくと、
一生おれは使用人でおわるんじゃないか、
そうおもうようになったのだ。