桜の開花予想がきょう、
気象庁からだされる。
職場の窓から外の景色を見わたせば、
花ももみぢもなかりけり、いまだ冬枯れの様相で、
今朝などはにび色の空の下、寒々とした小高い山の木々とコンクリートの
建物とがひっそり調和しながらたたずんでいる。
これがもう二週間もすると、桜が咲きはじめ、
いままで地面に埋もれていた空間に、
こんもりとさくら色の桜が咲き誇るのである。
ああ、あそこにも桜があったのだ、
毎年咲いているはずなのに、いつも、
はじめてのような発見がわたしたちにはある。
そういう発見、認識を古代人は「けり」であらわした。
花咲きけり。
こうやったのである。
専門家は、この「けり」を気づきの「けり」と呼び、
わたしは個人的に発見の助動詞と言っている。
「けり」は歌の最後をかざる便利な助動詞で、
学校は「詠嘆」と教えている。「けりをつける」という慣用句も、
この「けり」が由来しているのは知悉のことだ。
日本人が、とくに桜に関心のあるという事情は、
古代から不変のものなのだが、
いまのソメイヨシノという景気よく咲き、
景気よく散る品種は、江戸幕末にはじめてお目見えするものだから、
それまでのは当然ヤマザクラなのである。
ひさかたのひかりのどけき春の日にしづこころなく花の散るらむ
友則のこの有名な歌でも、
やはりヤマザクラなのであるから、
いまみたいな散り具合を想像してはいけない。
前髪をなおすしぐさの上目遣いアスファルトのうえさくら花散る
こちらはソメイヨシノをイメージしたわたしの短歌である。
ところで、四季といえば、
中国の奥地の高原で、日本人の立ち入りが許されず、
もしそこに行きたければ、
団体での登山が目的であるという証明を中国本国に
提出しないといけないという辺境の地がある。
標高は富士山より高く飛行機で行くしかない。
ここが、すこぶる興味深いのだが、
四季がいちにちでめぐってくるらしいのだ。
朝、起きると外には雪が降っている。
午前中に散歩にゆくと菜の花が咲いている。
日が高くなり昼をむかえれば、気温も二五度を上回り、
ひまわりが揺れながら咲いている。
夕方から夜にかけて気温は下がりつづけ、
すっかり秋めいてくるというのだ。
一年のはんぶんは夜、という国もあれば、
たった二四時間で四季の味わえる地域もあるのだ。
だから、この地で逗留をきめこむと、
まず、朝、起きると外には雪が降っている。
午前中に散歩にゆくと菜の花が咲いているだろうし、
日が高くなり昼をむかえれば、気温も二五度を上回り、
ひまわりが揺れながら咲いているはずだ。
夕方から夜にかけて気温は下がりつづけ、
すっかり秋めいてくるのではないか。
では、もう一泊するとしよう、
そこで問題です、朝、外には何が降っているでしょうか、
なんてウルルン紀行の問題にもならない。
中国の高地とちがい、
日本はゆっくりと一年をかけて四季がめぐり、
こころもからだも冷えびえした冬から、
自然も人間も春をむかえる。日本人に春という季節は、
源氏物語では紫の上が好んだとおり、
やわらかく包み込むような安堵感を与えるせいなのか、
すこぶる好まれる季節である。つまり、
春という季節は解放なのである。それも自然、
全宇宙からの解放なのである。そしてその象徴が桜であったのだ。
しかし、桜は春風や春雨に無防備にさらされ、
恥じらいをふくんだようなはなびらは、
この容赦ない自然の呵責により蒼穹に舞い散り、
宇宙空間にまで解き放たれたわれわれのこころは、
あっというまにその自然のきびしさや現実を
認識せざるをえなくなるのである。
桜のもとでは、若いふたりがせつない
おもいを抱きながら、
さきにあるだろう結論も言えずにただ
歩きまわるよりほかすべきことはなかった。
はじめからそういえばよかったぼくたちは堂々めぐりさくら花満開
短歌をはじめたわたしの、最初の歌である。